その日は、ふだんより少しだけ客の入りが多かった。
杏果の演奏が、ホームページで定期スケジュールに掲載されるようになってから、
少しずつだが「彼女の音を聴きに来た」という客が増えてきていた。
いつものように、控えめなステージ。
杏果はフォーレの《夢のあとに》を弾いていた。
まるで、遠くに流れていった感情の残響をすくい上げるようなその旋律。
鍵盤に向かう杏果の横顔は、静かに光に照らされていた。
曲が終わり、拍手がやさしく広がる。
杏果が深くお辞儀をし、ステージを降りようとした、そのときだった。
カウンターの端。
そこに座る、見覚えのある姿に気づいた。
黒いジャケットに、整えられた髪。
大学進学とともに上京し、やがて自然と疎遠になった、——元カレだった。
杏果の足が、一瞬だけ止まる。
けれどすぐに呼吸を整え、ゆっくりと客席を通り過ぎた。
彼のほうから、声がかかったのは、演奏後、飲み物を受け取りに来たときだった。
「……やっぱり、杏果だったんだな」
杏果は驚いたように振り向き、少しだけ笑った。
「久しぶり。……元気だった?」
「うん、まあ。……たまたまサイトで名前見つけてさ。来てみた」
言葉は穏やかだったけれど、どこか過去形のぬるさがあった。
杏果はそれに、懐かしさではなく、遠さを感じていた。
「昔と変わらないな、って思ったよ。……でも、前より優しくなったかもしれない」
「そう? ……今は、自分のために弾いてるから、かもね」
言葉に出して、自分でも少し驚いた。
あの頃は、“評価されるため”に、“結果を出すため”に弾いていた。
でも今は違う。音を、誰かと共有するために弾いている。
元カレは、グラスの縁を指でなぞりながら、少し視線をそらす。
「……なんか、ちょっと綺麗になったよな」
杏果は、その言葉に、笑いも返さずただ首をかしげた。
「……ありがとう。でも、私、今はもう、あの頃には戻れないから」
それが、彼とのやりとりの終わりだった。
杏果は軽く会釈をして、カウンターへと戻る。
◇◇
その日、最後のステージを終え、ベルベットコードは、演奏の余韻だけを残して静けさに包まれていた。
杏果はピアノの前に座り、鍵盤の蓋をゆっくりと閉じていた。
誰もいない店内に、自分の指が鳴らした音がまだ漂っている気がした。
「さっきの……知り合い?」
後ろから、飛弦の声がした。
杏果は少し驚いたが、すぐに頷いた。
「うん。高校のとき、付き合ってた人。
でも、もう何年も会ってなかった。たまたま、ホームページで名前を見て……来たみたい」
飛弦は、カウンターの縁に腰をかけ、何も言わずに杏果の横顔を見ていた。
「……そっか」
その一言に、杏果は目を伏せた。
「もう、なんとも思ってない。話してみて、はっきりわかったの」
杏果の演奏が、ホームページで定期スケジュールに掲載されるようになってから、
少しずつだが「彼女の音を聴きに来た」という客が増えてきていた。
いつものように、控えめなステージ。
杏果はフォーレの《夢のあとに》を弾いていた。
まるで、遠くに流れていった感情の残響をすくい上げるようなその旋律。
鍵盤に向かう杏果の横顔は、静かに光に照らされていた。
曲が終わり、拍手がやさしく広がる。
杏果が深くお辞儀をし、ステージを降りようとした、そのときだった。
カウンターの端。
そこに座る、見覚えのある姿に気づいた。
黒いジャケットに、整えられた髪。
大学進学とともに上京し、やがて自然と疎遠になった、——元カレだった。
杏果の足が、一瞬だけ止まる。
けれどすぐに呼吸を整え、ゆっくりと客席を通り過ぎた。
彼のほうから、声がかかったのは、演奏後、飲み物を受け取りに来たときだった。
「……やっぱり、杏果だったんだな」
杏果は驚いたように振り向き、少しだけ笑った。
「久しぶり。……元気だった?」
「うん、まあ。……たまたまサイトで名前見つけてさ。来てみた」
言葉は穏やかだったけれど、どこか過去形のぬるさがあった。
杏果はそれに、懐かしさではなく、遠さを感じていた。
「昔と変わらないな、って思ったよ。……でも、前より優しくなったかもしれない」
「そう? ……今は、自分のために弾いてるから、かもね」
言葉に出して、自分でも少し驚いた。
あの頃は、“評価されるため”に、“結果を出すため”に弾いていた。
でも今は違う。音を、誰かと共有するために弾いている。
元カレは、グラスの縁を指でなぞりながら、少し視線をそらす。
「……なんか、ちょっと綺麗になったよな」
杏果は、その言葉に、笑いも返さずただ首をかしげた。
「……ありがとう。でも、私、今はもう、あの頃には戻れないから」
それが、彼とのやりとりの終わりだった。
杏果は軽く会釈をして、カウンターへと戻る。
◇◇
その日、最後のステージを終え、ベルベットコードは、演奏の余韻だけを残して静けさに包まれていた。
杏果はピアノの前に座り、鍵盤の蓋をゆっくりと閉じていた。
誰もいない店内に、自分の指が鳴らした音がまだ漂っている気がした。
「さっきの……知り合い?」
後ろから、飛弦の声がした。
杏果は少し驚いたが、すぐに頷いた。
「うん。高校のとき、付き合ってた人。
でも、もう何年も会ってなかった。たまたま、ホームページで名前を見て……来たみたい」
飛弦は、カウンターの縁に腰をかけ、何も言わずに杏果の横顔を見ていた。
「……そっか」
その一言に、杏果は目を伏せた。
「もう、なんとも思ってない。話してみて、はっきりわかったの」



