ベルベットの夜 ― 夢を諦めた喫茶店スタッフ、ピアノバーの彼と出会い再び鍵盤の前へ

 杏果は仕事が終わりの喫茶店を出た。少し肌寒い、早春の夕方。空はまだ薄く明るい。

 駅前の歩道橋を渡り終えたとき、軽やかなピアノの音が聞こえてきた。

 ——この音。

 杏果は足を止めた。
 改札前の広場に置かれたストリートピアノの前に、見慣れた後ろ姿がある。
 アッシュグレーの髪、軽く首をかしげて鍵盤に向かう姿勢。

 飛弦だった。

 彼の指が、仕事を終えて帰る人たちで賑わう駅の構内に音を響かせる。
 《You Must Believe in Spring》。ゆっくりと、語るように旋律が紡がれる。

 周囲には何人かの人が立ち止まり、スマートフォンをかざしていた。

 演奏が終わり、軽い拍手が起こった。
 飛弦は、ふと顔を上げる。そして、杏果に気づいて、ほんのわずかに笑った。

「……聴いてたの?」

 杏果は少しだけ照れたように頷いた。

「うん。偶然、通りかかって」

 飛弦はピアノの蓋を静かに閉じた。立ち上がり、録画していたスマホを回収する。

「このあと、ちょっと寄ってかない?
  ……ベルベットコード。今夜、いいピアノが聴けると思うよ」
 
 その声に、杏果は少しだけ目を見開き、それから頷いた。

「……うん。客として二人で行くのは初めてだよね」

    ◇◇

 この日のベルベットコードは、少しだけ空気が違っていた。
 落ち着いた年齢層の客が多く、会話も低く、グラスの音だけが控えめに響く。

 ステージでは、年配の男性ピアニストが《Body and Soul》を弾いていた。
 白髪交じりのショートヘア、深い黒のジャケット。指はゆっくりと、しかし力強く鍵盤を操っていた。

 杏果は、飛弦と並んでカウンターに座り、その音に耳を澄ませていた。
 飛弦も何も言わず、ただ手元のグラスを静かに揺らしている。

 ——すごい。

 杏果は心の中で呟いた。
 装飾や技巧を越えた余裕を感じる演奏だった。

 曲が終わり、拍手が店内にパラパラと広がる。
 ピアニストは軽く会釈して、ステージを降りた。

 仁美がカウンターからその様子を見届け、軽く手を振って彼を迎える。
 ふたりは親しい友人のように、短い言葉を交わしていた。

 ふと、仁美がカウンターに目を向ける。
 杏果と飛弦の姿を見つけると、にやりと微笑みながら近づいてきた。

「ふたりで、来てたのね」

 飛弦が何も言わず肩をすくめる。杏果は、少しだけ表情を崩した。

 仁美はグラスを置きながら、さらりと言った。

「……次の金曜、ふたりで1ステージずつやってみない?」
「共演じゃなくていいの。ただ、ちゃんと“うちのピアニスト”として、名前を出して」

 杏果は一瞬、息をのんだ。

「……名前を出すんですか?」

「もちろん、ホームページでも告知するわ。
 二人のピアニストによるステージ、クラシックとジャズの夕べ、みたいな感じで」
 
 飛弦はグラスの縁を指でなぞるようにしてから、ぽつりと呟いた。

「また、巻き込まれたな……」

 杏果は迷っていた。
 名前を出すということ。それは、もう逃げられないということでもある。

 けれど、心のどこかではもう、決まっていたのかもしれない。

「……お願いします」

 杏果の声は、小さくてもはっきりしていた。
 飛弦がちらと彼女の横顔を見て、少し笑った。

「俺も。たまには、並んで立ってみるのも悪くない」

 仁美が満足げに頷いた。

「決まりね。じゃあ、告知するわよ」

 カウンターのグラスがきらりと光った。
 その夜、杏果の中でひとつ、覚悟が芽を出した気がした。 次の金曜、名前を出しての初ステージ。
 それを目前にしても、杏果の心は、不思議と騒がしくはなかった。

   ◇◇

 いつもどおりの喫茶店の勤務、ベルベットコードでの軽い練習。
 少しだけ違うのは、小さな緊張感があったこと。

 水曜の午後、ベルベットコードの開店前。
 杏果はピアノの前に、何冊かの薄い楽譜集を持ち込んでいた。

 そのうちの一冊を開きながら、ぽつりと呟く。

「……あまり派手じゃないものにしようと思ってるの。
  ここでは、“聴かせる”というより、“音でお店の空気を作る”ような感じが、合ってる気がして」

「うん。それでいいと思う」

 飛弦は、カウンターの端に腰掛け、カップを手にしながら杏果の言葉に頷いた。

「クラシックって、演奏する側が“魅せよう”とすると、途端に浮くんだよな、ここだと。
  ……君のピアノは、そうじゃないから、よく馴染むんだと思う」

 杏果は小さく笑った。

「今回は……目立ちすぎない、小さな曲をいくつか並べようかなと思ってるの。
  例えば、グリーグの《アリエッタ》、マクダウェルの《野ばらによせて》、
  それに、シューマンの《トロイメライ》とか……」
 
「全部、優しい曲だね。……攻めてないというか」

「うん。攻めるつもり、ないの。
  この店では、音を出すことより、音を置くことが、大事な気がして」

 その言葉に、飛弦はふっと息を漏らして笑った。
 
「君って、たまに、ジャズっぽいこと言うね」

 杏果は、驚いたように顔を上げた。
 
「私、そんなつもりじゃ……」

 杏果は、自分でも気づかないうちに笑みをこぼしていた。
 楽譜の端に、指先でそっと触れる。 

「ねえ、あなたは何を弾くの?」

「んー……多分、スタンダードを二曲くらい。あとは、映画音楽のジャズアレンジにしようかな。
   もちろん、お客さんからリクエストがあれば、それにはこたえるけど」
 
「……それ、楽しみにしてる」

 ふたりの間に、静かな沈黙が流れた。
 
 杏果はそっと、グリーグのページを開いた。 

 この小さな旋律たちが、金曜の夜、どんなふうに響くだろう。
 それを考えると、不安よりも、少しだけ楽しみが勝っていた。
 
   ◇◇

金曜日の夜。
 ベルベットコードの照明が、いつもよりほんの少しだけ柔らかく灯っている気がした。
杏果はステージ脇の控えスペースで、深く息を吐いた。
 ステージ前に出るのは何度目かでも、この夜は違っていた。
 ホームページに名前が載った。スケジュール表にも「七瀬杏果」と記された。

 客席には、見知った常連客と、初めて見る人たち。
 カウンターには仁美がいて、カクテルを作りながら、ちらりと杏果に視線を送ってきた。

「……どうぞ」

 小さくうなずき、杏果はステージへと足を進めた。

 ピアノの前に座ると、照明が少し落ちる。
 静寂が、空間をひとつにした。

 最初の曲は、グリーグの《アリエッタ》。
 淡い光を通すレースのような旋律が、夜の空気をやわらかく染めていく。

 続いて、マクダウェルの《野ばらによせて》。
 ゆったりとした拍の中に、杏果の指が置いていく音は、語りかけるように優しかった。

 最後は、シューマンの《トロイメライ》。
 誰の心にもある“遠い午後”の記憶に触れるような響きだった。

 演奏が終わっても、誰もすぐにはグラスを持ち上げようとしなかった。
 ただ、しばしの沈黙の後、自然に、拍手がふわりと湧いた。

 杏果は深く礼をし、静かにステージを降りた。

     ◇◇

 飛弦のステージは、30分の間をおいて始まった。

 彼は一言も発さずにピアノに座り、《My Foolish Heart》と《You Don't Know What Love Is》を演奏した。
 芯のあるバラードが、静かに場を貫いた。
 ふたりの音楽は違っていた。でも、不思議とどこかでつながっていた。

 ふたりがカウンター脇に戻ったとき、仁美が歩み寄ってきた。

「……いい夜だったわ」

 そう言って、グラスを拭きながら目を細める。

「お客さん、あなたたちの名前、何人も聞いてきたのよ。
  “あのクラシックの子、毎週いるの?”って。……ふふ、気に入られたわね」

 杏果は思わず、目を見開いた。
 飛弦が横で、少しだけ笑った。

「……名前、出すの、こわかったけど」
 杏果はぽつりと呟いた。
「でも、誰かがちゃんと聴いてくれてたなら……出してよかったって、思えます」

 仁美はグラスをトレイに戻し、ひとことだけ言った。

「ええ。あなたたちの音は、ちゃんと届いてる。……誤魔化しのない音だから」

     ◇◇

 ステージの翌日。
 杏果はいつものように「キャリコ」のカウンターでコーヒーを淹れていた。

 昼下がりの光が店内にやわらかく差し込む。
 マスターの奥野茂は、新聞をたたみながら、ふと顔を上げた。

「……なんだか、いい顔してるな」

「え?」

 杏果は思わず手を止めて振り向いた。
 マスターはニヤリと笑う。

「最近、よくなってきてるよ、表情。……肩の力が抜けてるというか」

「……そうですか?」

 少し照れながらも、杏果は静かに頷いた。
 そして、思い切って言葉を続ける。

「……あの、マスター。
  実は、ベルベットコードっていうピアノバーで、定期的に演奏することになって」

「お」

 マスターは目を細めた。

「……前に“ちょっと触ってる”って言ってたけど、本格的になったんだな?」

「はい。名前も出してもらって……ちゃんとスケジュール表にも載るようになったんです」

「それはすごいな」

 杏果はほんの少し迷ったあと、笑って言った。

「よかったら、マスターも……聴きに来てくれませんか?」

「もちろん」
 
 湯気の向こうで、基子さんが優しく頷いていた。

「その日、行けたら私も一緒に行くわ。……楽しみにしてる」