金曜の夜、ベルベットコード。
 開店後間もない時間、杏果は店のドアをくぐった。

 今夜は、飛弦がステージに立つ日だった。
 杏果は、ひとりの客として、この飛弦のピアノを聞きたかった。

 選んだのは、ピアノを演奏する姿がよく見える、ステージ側に向いたカウンターの席。
 杏果はメニューを開かず、静かに「ノンアルコールのカクテルを」とだけ注文した。

 やがて、仁美が近づき、声をかけてきた。

 「杏果ちゃん、来てたのね。……飛弦くんのピアノ、聴きにきたのかしら?」
 
 「はい。この席から聴いてみたくて……」
 杏果は照れたように、けれどどこかまっすぐな声でそう答えた。

 演奏時間が近づくと、照明が少しだけ落ち、ステージには柔らかな照明が当てられた。

 グランドピアノの前に、飛弦が現れた。
 ゆったりと腰を下ろし、指先が鍵盤に触れる。

 最初の音は、深い静けさから滲み出るように始まった。
 演奏は《My Funny Valentine》。
 金曜の夜、一週間の疲れを静かに溶かしていくような、優しく包み込むような音だった。

 メロディが1コーラス流れ、やがて飛弦はアドリブに入る。
 コードの中を泳ぐように、軽やかでいて深い響きが店内に染み込んでいく。

 杏果は、その演奏に身を預けていた。
 ふと、胸の奥から自然にこぼれた声。

 「……私は、こんなふうには弾けない」

 その声に応えるように、背後から柔らかな声が届いた。

 「でも、あなたにしか弾けない音もあるわ」

 振り返ると、仁美がそっと立っていた。
 グラスを手にしたまま、穏やかな笑みを浮かべている。

 杏果は驚いたように一瞬目を見開き、やがて、静かに微笑んだ。

   ◇◇

 土曜日。昼下がりのベルベットコード。
 開店準備も始まっていない、静かな午後。

 杏果は、ステージのピアノの前に座っていた。
 店内の照明は落ちたまま。薄く差し込む窓からの光だけが、鍵盤の上を淡く照らしている。

 譜面は置いていない。
 ドビュッシーの《月の光》。その旋律は、手に残っている。

 杏果は深く息を吸い、そっと鍵盤に指を置いた。

 最初の音が、まるで夜の湖面に映る月のように、静かに店内に広がる。

 音は極限まで抑えられ、でも確かに響いていた。
 ペダルが作る残響が、時間の流れをゆっくりに変える。

 杏果は、音を置くようにして弾いていた。ひとつずつ、確かめるように。

 やがて最後のフレーズが、風のように消えていく。

 静寂が戻る。
 杏果は指を鍵盤から離し、そっと息を吐いた。

 「……静かすぎて、途中で息止めそうだった」

 驚いて振り向くと、飛弦がステージ脇の壁にもたれて立っていた。
 いつからそこにいたのか、わからなかった。

 彼は腕を組んだまま、表情を変えずに言った。

 「ピアノって、こんなに“間”で表現できるんだな」

 杏果は戸惑いながらも、微笑んだ。
 自分の表現が、飛弦にちゃんと伝わっていたことが、嬉しかった。

 飛弦は、ゆっくりとカウンターの方へ歩き出した。
 立ち去り際、ぽつりと背中越しに言った。

 「……たまには、静かなのも、いいな」