ベルベットの夜 ― 夢を諦めた喫茶店スタッフ、ピアノバーの彼と出会い再び鍵盤の前へ

 その夜、ベルベットコードは穏やかに一日を終えた。
 最後の客がドアを出ていき、仁美が店内の照明を一段落とす。

 杏果はステージの譜面を片づけながら、今日の演奏を心の中でなぞっていた。
 静かな満足感。けれど、どこか胸に引っかかる感情もある。

 そのとき、背後から声がかかった。

「……聞こえてたんだろ」

 振り返ると、カウンターの奥に飛弦がいた。
 グラスを片手に、杏果を見ていた。

「……すみません。そんなつもりじゃなかったんです」

「別に。僕も、隠してたわけじゃないし」

 杏果は、譜面を手にしたまま、言葉を探していた。
 飛弦はそんな彼女の戸惑いを察したのか、ゆっくりと言葉を続けた。

「兄貴は、昔からすごい人でさ。努力もできるし、頭もいい。人付き合いもうまくて、たぶん“正しく”大人になった」

「でも俺は、途中でどうしても音楽を捨てられなかった。正直、会社辞めたときは、自分でも何してんだろうって思ったよ」

 杏果は、静かにステージを降りて、カウンターに近づき、飛弦の横に座る。

「それでも……後悔してないんですね?」 

 飛弦は、苦笑するようにグラスを傾けた。

「後悔しないようにしてる、って感じかな。手放したものもある。でも、音楽はまだ、僕の中に残ってるから」

 言いながら、彼はステージのピアノにちらりと目をやった。
 いつものように語気は強くない。けれど、その目はまっすぐだった。

 杏果は、しばらく黙っていた。
 胸の奥で、小さくなった過去の自分が、そっと顔を上げた気がした。

「……私は、手放してました。音楽も、夢も」

 それだけ言うと、飛弦は彼女の方を見た。
 でも何も言わなかった。ただ、静かに目を合わせた。

 沈黙が降りた。けれど、それは重たいものではなかった。
 同じものを持ち、同じように揺れたふたりの間に生まれた、ひとつの共鳴。

 杏果は目をそらし、ふっと息をついた。

「……でも、また弾いてみようって思えたのは、あなたのおかげです」

 飛弦は少しだけ視線を落とし、グラスをカウンターに置いた。
 そして言った。
 
「……だったら、もう手放すなよ」
 
 それは命令でも、励ましでもなかった。
 ただ、音楽を知る者の静かな祈りのような言葉だった。