ベルベットの夜 ― 夢を諦めた喫茶店スタッフ、ピアノバーの彼と出会い再び鍵盤の前へ

 日曜の夕方。
 開店直後のベルベットコードは、静かだった。

 テーブルにはちらほらと客の姿がある。
 静かにグラスを傾けるカップルや、読書をしている一人客。
 ここでは、音楽は主役ではない、けれど、空気の一部としてそこにある。

 杏果は、ステージ脇でそっと深呼吸をした。
 軽く巻いた髪に、いつもより少しだけ丁寧なメイク。
 仁美に「ちょっとおしゃれしてきたら?」と言われて選んだ、シンプルな黒のワンピース。

 仁美がさりげなく、カウンター越しに目配せをする。

 杏果はうなずき、ステージに歩み出た。
 誰も気に留めていない――それが、少しだけ心を楽にした。

 ピアノの前に座り、鍵盤に手を置く。
 深く息を吸って、指を動かす。

 最初の一曲。サティ《ジムノペディ第1番》。

 ゆったりとした三拍子。
 柔らかい和音が、少しずつ空間に広がっていく。
 演奏というより、“音を置いていく”ような感覚。

 杏果の緊張が、ゆるやかに溶けていく。
 この音は、ベルベットコードの静けさに似合っている。仁美の言葉が思い出された。

 二曲目。ドビュッシー《亜麻色の髪の乙女》。

 少しだけリズムが速く、旋律に表情がある。
 音と一緒に、杏果の中の風景もやわらかく動き出す。
 練習してきた日々の記憶が、指先から流れていくようだった。

 曲の終わり際、一人の客がふと顔を上げた。
 隣の連れと小声で何かを話している。
 内容はわからない。でも、そのささやきが“届いた”ことの証のように思えた。

 そして、最後の一曲。ショパン《ノクターン第20番》。

 杏果は、一瞬だけ手を止め、視線を下に落とした。
 この曲を弾いていたとき、飛弦が「映画で使われてたよね」と言ったのを思い出す。
 “誰かの記憶と繋がる音”――そんなふうに感じたのは、あのときが初めてだった。
 自分の音が、少しでも誰かのなかに残るなら。
 それだけで、弾く理由になる気がした。

 ゆっくりと、右手の旋律が始まる。

 どこか哀しみを帯びた、でもやさしい旋律。
 低音部のアルペジオがそれを支える。

 杏果は、自分の出す音が“誰か”に届いているかはわからなかった。
 でも、今はそれでいいと思えた。
 これは、まず“自分のための音”なのだと。

 曲の最後、静かに和音を重ねて、そっと指を離す。
 ピアノの中で共鳴が消えていくのを感じながら、杏果は軽く頭を下げた。

 すると、ぽつりとひとつ、拍手が響いた。
 それに導かれるように、別の席でも、もうひとつ。

 店全体が拍手に包まれたわけではない。
 でも、ほんのいくつかの掌の音が、杏果には十分だった。

 ステージを降りたとき、仁美がグラスを拭きながら言った。

「おつかれさま。……ね、弾いてよかったでしょ?」

 杏果は少し笑って、頷いた。

「はい……まだ、手が震えてますけど」

 ピアノの音が、店の空気に溶けていく――
 その感覚が、何よりも嬉しかった。

   ◇◇

 カウンターの横を通ったとき、隅に座っていた飛弦が、グラスを持ったまま顔を上げた。

「……次は、何弾くの?」

 杏果は、はっとして彼を見た。
 問いかけは、それだけ。
 でも、その言葉の奥に、次への期待が宿っているのがわかった。
 
 杏果は少しだけ考え込むように視線を伏せ、それからゆっくり微笑んだ。
 
「……考えておきます」

 飛弦はそれ以上、何も言わなかった。
 グラスの中身を一口だけ飲むと、視線をふたたびテーブルに戻した。

 その夜。
 杏果は帰り道を、ゆっくりと歩いた。

 空には、冬の星座が冴え冴えとした光を落としている。

 駅までの道すがら、ふとコートから手を出してみる。
 演奏を終えたばかりのその手は、まだほんのりと熱を帯びていた。

 音が、人に届いた。
 それだけで、世界が少し変わって見える気がした。