土曜の午後。遅番出勤までには、まだ少し時間があった。
杏果は鞄に数冊の譜面を入れて、ベルベットコードの扉を開けた。
いつものように仁美が出迎え、簡単な挨拶を交わすと、杏果はまっすぐピアノのもとへ向かう。
今日は、ただ弾くだけではなかった。
明日、初めてステージに立つ。その曲を、決めなければならなかった。
ピアノの前に座り、譜面を一枚ずつめくる。
サティ、ドビュッシー、モーツァルト、ショパン。どれも心に残っていた曲。
けれど、“お客さんが聴くための音”を出すのは、また別のことだった。
《ジムノペディ第1番》の譜面に手をかける。
ゆっくりと鍵盤に指を置き、静かに弾き始めた。
音が、空間にやわらかく広がっていく。
この店の午後の空気に、静かに馴染んでいく音。
「……悪くないね」
不意にかけられた声に、杏果は肩を揺らした。
振り向くと、カウンターの奥に飛弦が立っていた。
いつ来たのか気づかなかった。
「びっくりした……」
「ごめん、邪魔した?」
「いえ。……聴かれてたんですね」
飛弦は手に持っていた水のグラスを置きながら、ピアノに視線を移した。
「その曲、ここに合ってると思う。音が邪魔にならないけど、ちゃんと残る。……たぶん、最初の一曲に向いてる」
杏果はうなずいた。
「私も……そう思ってました。なんとなく、ですけど」
そのあと、杏果は《亜麻色の髪の乙女》、そして《ノクターン第20番》を順に弾いていった。
ドビュッシーの柔らかい旋律は、自分の中にあるものをそっとなぞるような感触だった。
ショパンのノクターンは、飛弦と言葉を交わした曲。弾きながらも胸がざわついた。
「それ、やっぱり弾くんだ」
演奏が終わったあと、飛弦がぽつりとつぶやいた。
「……はい。チャレンジではあるんですけど」
「でも、この曲を聴いてほしいって、思ったんです」
飛弦は、ピアノの蓋を指先でそっとなぞった。
「クラシックって、“語る”音楽って感じがするよな」
杏果は、不意に息をのんだ。
嬉しさとも違う、でも胸にすっと染み込む感覚。
言葉では返せずに、ただ小さく、うなずいた。
飛弦はそれ以上何も言わず、軽く手を上げてカウンターを離れていった。
杏果はもう一度、ピアノに向き直る。
指先に、さっきのノクターンの感触がまだ残っていた。
明日、人の前で音を届ける。
怖さもあるけれど、今はそれ以上に――弾きたい、と思っている自分がいる。
杏果は鞄に数冊の譜面を入れて、ベルベットコードの扉を開けた。
いつものように仁美が出迎え、簡単な挨拶を交わすと、杏果はまっすぐピアノのもとへ向かう。
今日は、ただ弾くだけではなかった。
明日、初めてステージに立つ。その曲を、決めなければならなかった。
ピアノの前に座り、譜面を一枚ずつめくる。
サティ、ドビュッシー、モーツァルト、ショパン。どれも心に残っていた曲。
けれど、“お客さんが聴くための音”を出すのは、また別のことだった。
《ジムノペディ第1番》の譜面に手をかける。
ゆっくりと鍵盤に指を置き、静かに弾き始めた。
音が、空間にやわらかく広がっていく。
この店の午後の空気に、静かに馴染んでいく音。
「……悪くないね」
不意にかけられた声に、杏果は肩を揺らした。
振り向くと、カウンターの奥に飛弦が立っていた。
いつ来たのか気づかなかった。
「びっくりした……」
「ごめん、邪魔した?」
「いえ。……聴かれてたんですね」
飛弦は手に持っていた水のグラスを置きながら、ピアノに視線を移した。
「その曲、ここに合ってると思う。音が邪魔にならないけど、ちゃんと残る。……たぶん、最初の一曲に向いてる」
杏果はうなずいた。
「私も……そう思ってました。なんとなく、ですけど」
そのあと、杏果は《亜麻色の髪の乙女》、そして《ノクターン第20番》を順に弾いていった。
ドビュッシーの柔らかい旋律は、自分の中にあるものをそっとなぞるような感触だった。
ショパンのノクターンは、飛弦と言葉を交わした曲。弾きながらも胸がざわついた。
「それ、やっぱり弾くんだ」
演奏が終わったあと、飛弦がぽつりとつぶやいた。
「……はい。チャレンジではあるんですけど」
「でも、この曲を聴いてほしいって、思ったんです」
飛弦は、ピアノの蓋を指先でそっとなぞった。
「クラシックって、“語る”音楽って感じがするよな」
杏果は、不意に息をのんだ。
嬉しさとも違う、でも胸にすっと染み込む感覚。
言葉では返せずに、ただ小さく、うなずいた。
飛弦はそれ以上何も言わず、軽く手を上げてカウンターを離れていった。
杏果はもう一度、ピアノに向き直る。
指先に、さっきのノクターンの感触がまだ残っていた。
明日、人の前で音を届ける。
怖さもあるけれど、今はそれ以上に――弾きたい、と思っている自分がいる。



