水曜日、遅番の出勤前。
杏果はいつものように、ベルベットコードを訪れた。
昼下がりの、まだ静けさが残る店内。
仁美は、カウンター越しにグラスを拭きながら、杏果のピアノを遠巻きに聴いていた。
演奏を終え、杏果がそっとピアノの蓋を閉じたとき。
仁美がカウンターから顔をのぞかせて言った。
「不思議ね。あなたの音、あの子――ピアノと、よく合ってるわ」
「……ベルベットコードの空気に、きれいに溶け込む感じ」
杏果は、驚いたように少し目を見開いた。
「そんな……まだ、ただの練習なのに」
仁美は、ふっと微笑む。
「ねえ、杏果ちゃん」
「今度の日曜、ちょっとだけ弾いてみない? ステージで」
「え……?」
「日曜の開店後の時間帯は、まだ人も少ないし、軽く一ステージだけ。お試しって感じで。ね?」
思いがけない言葉に、杏果は一瞬、返す言葉を失った。
「……私が、ですか?」
「ええ。ここで弾く音、ほんとに馴染んでるの。お客さんに聴かせる価値、あると思うわ」
仁美の声はさらりとしていて、押しつけがましさは一切なかった。
けれどその分、杏果の胸の奥にまっすぐ届いた。
「最初は“お試し”ってことで。
もしお客さんが喜んでくれたら、そのときは正式な出演扱いにしましょう。ちゃんとギャラも出すわ」
胸の奥が、静かに波打った。
ピアノを再開してから、自分の音が“誰かに届く”なんて、思ってもみなかった。
「……でも、私、こういうところで弾くような服……持ってなくて」
仁美は、くすっと笑った。
「大丈夫。うちは、そんな格式ばった店じゃないから。
ちょっとだけ、おしゃれをしてくれれば、普段着でも十分よ」
その言葉に、杏果はほっと息をつきながらも、どこか背筋がすっと伸びるような気持ちになった。
初めて“誰かのために”弾く、その一歩。
その扉が、いま静かに開かれようとしていた。
杏果はいつものように、ベルベットコードを訪れた。
昼下がりの、まだ静けさが残る店内。
仁美は、カウンター越しにグラスを拭きながら、杏果のピアノを遠巻きに聴いていた。
演奏を終え、杏果がそっとピアノの蓋を閉じたとき。
仁美がカウンターから顔をのぞかせて言った。
「不思議ね。あなたの音、あの子――ピアノと、よく合ってるわ」
「……ベルベットコードの空気に、きれいに溶け込む感じ」
杏果は、驚いたように少し目を見開いた。
「そんな……まだ、ただの練習なのに」
仁美は、ふっと微笑む。
「ねえ、杏果ちゃん」
「今度の日曜、ちょっとだけ弾いてみない? ステージで」
「え……?」
「日曜の開店後の時間帯は、まだ人も少ないし、軽く一ステージだけ。お試しって感じで。ね?」
思いがけない言葉に、杏果は一瞬、返す言葉を失った。
「……私が、ですか?」
「ええ。ここで弾く音、ほんとに馴染んでるの。お客さんに聴かせる価値、あると思うわ」
仁美の声はさらりとしていて、押しつけがましさは一切なかった。
けれどその分、杏果の胸の奥にまっすぐ届いた。
「最初は“お試し”ってことで。
もしお客さんが喜んでくれたら、そのときは正式な出演扱いにしましょう。ちゃんとギャラも出すわ」
胸の奥が、静かに波打った。
ピアノを再開してから、自分の音が“誰かに届く”なんて、思ってもみなかった。
「……でも、私、こういうところで弾くような服……持ってなくて」
仁美は、くすっと笑った。
「大丈夫。うちは、そんな格式ばった店じゃないから。
ちょっとだけ、おしゃれをしてくれれば、普段着でも十分よ」
その言葉に、杏果はほっと息をつきながらも、どこか背筋がすっと伸びるような気持ちになった。
初めて“誰かのために”弾く、その一歩。
その扉が、いま静かに開かれようとしていた。



