喫茶店「キャリコ」の開店準備は、朝の静けさの中で始まる。

 コーヒーミルの音と、湯気の立つ音だけが店内に満ちている。七瀬杏果はカウンターの奥で、ドリップ用のポットをくるくると回しながら、小さく息をついた。

「今日も天気、よさそうだねぇ」

 奥野マスターが新聞をたたみ、店の入り口に「OPEN」の札をかける。
 
 杏果は、短大でピアノを学んでいた。ピアニストを目指していた時期もあった。しかし、現実にはピアニストでは生活はできない。親はすでに退職し、少しでも自分で生活費を稼ぐ必要もある。

 喫茶店スタッフを続けるうち、いつしか、鍵盤から手が離れてしまった。

   ◇◇

  勤務が終わるのは夕方の五時少し前。杏果は、制服から私服に着替え、カウンターの奥からマスターと基子さんに軽く会釈をして店を出た。

 駅へと続く歩道橋を渡る風が、すこし冷たくて、静けさを連れてくる。

 改札前の広場に近づくと、ふと、音が耳に届いた。
 ──あ、今日も弾いてる。

 駅構内に設置されたストリートピアノから、ジャズアレンジされたJ-POPの旋律が流れてくる。鍵盤を軽やかに叩くその姿に、杏果はまた足を止めてしまった。

 青年は、少し無造作なアッシュグレーの髪をしていて、目元は鋭く、それでいてどこかもの憂げだった。外付けマイク付きのスマホをスタンドに立て、どうやら演奏を撮影しているようだ。演奏が終わると、ほんの少しだけ視線をあげて、杏果を一瞥した。

 彼女は思わず拍手を送った。

   ◇◇

 拍手がパラパラと広がった瞬間、背中に強い衝撃が走った。

「っ!」

 バランスを崩して、膝を地面につく。振り返ると、スーツ姿の中年男性が、ぶつかってきたようだった。目が合うと、男は何も言わずに顔を背け、早足で去ろうとする。

「おい、ちょっと待て」

 青年が立ち上がり、男の肩を軽く掴んだ。

「ぶつかりおじさんだ。誰か、駅員か警察を呼んでください」
 近くにいた通行人がスマホを取り出す。男は狼狽えた様子で、口を開いた。

「混んでたから、たまたま当たっただけだろ!」

「……いや。たまたまじゃないですよ」
 青年は、撮影していたスマホの向きを変えて、男がぶつかる様子を録画していた。

 再生された動画には、男がまっすぐ杏果に向かって早歩きで近づいてくる姿が、はっきりと映っていた。駅員が駆けつけ、通行人たちの証言も加わって、男は観念したように肩を落とした。

 しばらくして、駅員の通報を受けて来た警察官に連行されていく男の後ろ姿を見届け、杏果は小さく息を吐いた。
「ありがとうございます……助かりました」

「それより、怪我はありませんでしたか?」

 心配そうにのぞき込む彼の目は、演奏中とは打って変わって、優しい色をしていた。

「大丈夫です。……少し、驚いただけで」

 そのとき、杏果は初めて彼の名前を聞いた。

「桜井飛弦(さくらいひづる)です。……よかったら、また聴きに来てください」