Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]

「ねぇ……アメル。お腹空かない?」
「え……もう!?」

 プシケに乗って小一時間。しばらく大人しかったルーラの開口一番は、見送った人魚達の想像通りだったに違いない。いや、その申し訳なさそうな表情から察するに、ずっと無口だったのは空腹を我慢していたからだろう。僕はプッと吹き出して「そんなに辛抱することないのに」と笑うと、「だって~」と恥ずかしそうに頬を赤らめたルーラは、同じように笑ってみせた。

「あっ、あそこで休みましょう。マルタ達のお弁当、美味しいわよ」

 ルーラの指差した岩場へ腰かける。彼女は片手で器用に荷物の中身を広げ、僕に差し出した。

「あの……僕も食べていいの?」

 先程の彼女のように恐る恐る尋ねた。事故で死んだように見せかけるため、僕は何一つ自分の荷物を持ち出せなかった。とはいえ、大した物などなかったのだが。唯一身につけていたペンダントは東の館。今の僕はほとんど着たきりのいつもの洋服と、ズボンのポケットにしまわれた大ばば様の鱗、それに幾ばくかのコインと、小さなナイフしか持っていない。

「もちろんよ。でも人魚の食事って、アメル達のとは違うのかしら?」

 首を傾げたルーラの掌には、パンのような形態の食べ物が乗っていた。受け取っておっかなビックリ一口含んだが、パン以上の味わいで思わず「美味しい!」と叫んでいた。

 それを見て喜んだルーラは同じようにほおばって、落ち着いたのか思い出したように、

「アメル……姉様(ねえさま)のことはごめんなさいね。あたしがシレーネに選ばれた少し前からずっとあの調子なの。姉様はいつも通りよって言うのだけど……」

 そう言って淋しそうに口をつぐんでしまった。
 姉の突然の変化というのも、ルーラの心を塞ぐ一端であるようだ。

「ねぇ、ルーラ。シレーネになるのに条件とかあるの?」
「うん……第一に唄が上手なこと。それは人間と遭遇した時に備えてだと思う。第二は十六の誕生日を迎える娘であること。これは人魚の成人が十六歳だから。でも第三の理由は良く分からないの」
「第三って?」
「金髪であること」

 ルーラは僕にそう告げた後、食べかけの食事を眺めながら、自分の巻き毛を指に絡ませた。

「百五十年前までシレーネだった大ばば様も、昔は金髪だったって。今の人魚界にはあたししかいない。それから銀髪の人魚は、決まってシレーネの補佐になるんだって。補佐は普通の侍女と違うの。結界の外を見張るって言ってたわ。そして銀髪も今は姉様しかいない……」
「う……ん」

 ルーラが分からないのだから、僕に分かる筈もない。でも大ばば様が死んだ今、誰が知っているのだろう。大ばば様の侍女達か、ルーラの姉さんか……それとも?

「ルーラの姉さんは、あの祭りの時、何処にいたの?」

 僕は大ばば様の死んだあの夜を思い出した。
 あの騒ぎで気付かなかったのか、僕はルーラの姉さんを見た覚えがない。

「アメルの船がぶつかるまでは、一緒に輪の中にいたわ。後から知ったのだけど、それからすぐ、その事故で結界が心配になって見回りに行っていたって。あそこは浅い所まで結界がきているから。大ばば様の最期を見届けてあげられなかったことを酷く残念がってた……シレーネはいなくても、姉様は大ばば様の侍女だったから」

 その原因を作ったのは僕の船だから、そういった恨みもあるかもしれない──と、僕は気付かれぬように苦笑した。

 となれば、彼女は今まで飽くまでも侍女の一人であり、あの日ルーラがシレーネの階級を得て、と同時に補佐へと昇格した訳だ。
 その責任の重さに押し潰されまいとしているのか、何か別の理由があるのか、カミルの悲壮感漂う顔つきには、ただならぬものが感じられた。

「あの、アメル。ずっと手握っているの疲れない? 海の中にいてもまだ大丈夫?」

 食事を終え片付けを始めながら、心配そうな表情でルーラが尋ねた。

「いや、大丈夫だよ。僕の方こそ強く握り過ぎたりしていない? ずっと魔法を使っていてもルーラに支障はないの?」

 と申し訳ない気持ちで答えた。

 結局のところ僕はルーラのお荷物なだけであった。彼女の力なくしては海に潜れず、食事も分け与えられ、彼女の自由も奪っている。

 そんな僕の気持ちに気付いたのか、

「あたしは大丈夫! この魔法は大ばば様の力を吸収したウィズの石で保たれているようなものだから、特にエネルギーを使わないし。アメルと手を繋いでいると、温かくて勇気も出てくるわ。正直言って結界の外は怖いもの。サファイア・ラグーンの場所も分からないし……」

 と精一杯の笑顔を作った。

「ありがとう、ルーラ」

 僕はそんなルーラに、はにかみながらお礼を言った。

 勇気を与えられているのは僕の方だ。
 彼女といるだけで温かい気持ちになれる。僕の周りの人間達は、両親を除いて皆、邪悪な二つの心を持つ悪魔だった。

 一つは『強欲』──世の中は全て金次第。そしてもう一つは『嘘』。

 父さんの仕事が順調だった頃、あれほど楽しい仲間だった両親の友人や親戚は、父さんが行方不明になった途端寄りつかなくなった。母さんが働きに出て、身を削りながら仕事をしていた時もそうだ。病気になって症状が重くなるにつれ、情けもなしに追い出された。母さんを病院へ入れるため、やっと十二になった僕が仕事を探す時も、それだけでは足らず、父さんの家を売りに出した時も、仲介を引き受けた男達は嘘という皮を被った魔物だった。僕達から吸い尽くせるだけの仲介料をむしり取って、(あざけ)るように嗤い去っていった。

「アメル、苦しくなったら隠さないで言ってね。結界を抜けてしまえば、人目につかない島を見つけるのも簡単だと思うから」

 きっと僕は過去に身を置きながら、よっぽど怖い顔をしていたに違いない。走り出したプシケの背中で、ルーラは僕の体調を気遣ってくれた。

「ありがとう……逆にルーラはどれくらい陸上にいられるものなの?」
「鱗が乾かなければ幾らでも」

 プシケが崖を避けるため旋回したので、僕を覆う空気がまるでシャボン玉のように潤んで、はっきりと見て取れはしなかったが、一瞬ルーラの表情が淋しそうに見えた。

 僕達は一緒の世界では暮らせない。

 そんなことはもちろん分かっている。だからこそ今という時間が愛おしくて仕方がなかった。ルーラが隣にいる。触れ合う手。本当は掴まれたあの時から胸の高鳴りが止まらない。今もずっと。気取(けど)られているかもしれない。このまま心臓が高速で波打つなら、僕の人生は半分で終わるだろう。それほどの幸せ。

 でもいつかこの旅も終わる。
 ルーラは立派な魔法使いとなり、シレーネとして君臨すべく結界へ戻る。

 そして僕は──僕はどうなるのだろう。

 また幸いにして船の上で働けたら、時々ルーラに会えるのだろうか? でもその時々は嬉しい時間でもあり、辛い時にもなるだろう。ならば、どうにか父さんのカケラを探し出し持ち帰って、元気になった母さんの傍で、低賃金ながらも働ける職場を見つけるべきなのだろうか──ルーラを忘れるためにも。

 ルーラを忘れる!? 隣にいるのに? 僕の悲観主義にも呆れたものだ。決して見ることの出来ない未来を勝手に決めるなんて──。

「そう言えば、アメルが姉様に預けたペンダントは、あたしのルラの石みたいな物?」

 その細い首に掛けられたネックレスの先の、心を見透かしそうなほど透き通ったルラの石とウィズの石を指でなぞりながら、ルーラは相変わらず渋い顔をした僕の気を紛らわせようとしていたのかもしれない。僕はいい加減自分の殻から抜け出し、

「そんなに素敵な物じゃないよ。でもペンダントがロケットになっていて、僕の宝物が入ってるんだ」

 と微笑んだ。

「宝物?」
「まだ父さんが行方不明になる前に、母さんと三人で浜辺で拾った小さな桃色の二枚貝」

 僕はそう答えたものの、ちょっと恥ずかしくなった。大の男が貝殻なんて女々しいに違いない。

 けれどルーラはそんなことには気付かず、『父さん』という言葉にも反応を示さなかった。いや、きっと『母さん』という言葉にインパクトがあったのだろう、

「アメルにも母様(かあさま)がいるのね!? どこに住んでいるの? ……あ、でもそうしたら、アメルのこと死んだと思ってしまうんじゃ……」

 と興味と心配を示した。

 母さん──出発の際に現れなかったが、ルーラにも母親がいるのだろうか?

「大丈夫だよ。元々あと二ヶ月は帰らない予定だし。それに船員達は僕の母さんの居場所を知らないから……病院にいるんだ」
「びょういんって?」
「病気になったら入る所」
「アメルの母様、病気なのね……」

 人魚の世界には病院がないらしい。魔法が普通な世界だ。必要ないのかもしれない。

「ルーラ?」

 今度は僕が心配する番だった。
 泣きそうな顔をして、何かを想い出しているようだった。

「あたしの母様も病気だった。あたしが二歳になる直前死んでしまったから、顔も覚えていない。でもヘラルドがいうには、今の姉様に良く似ているって。髪も銀色で優しい瞳をしていたって……」

 海水に混じってルーラの涙は分からなかったが、小さい肩が小刻みに震えていた。

「だから姉様は母様の代わりに私の面倒を看てくれた。そんな姉様が、私がシレーネになってから、ずっと哀しい顔をしてる……どうして──」

 僕はよっぽど彼女の肩を抱いてあげたかったが、塞がった右手では無理だった。僕は半身を捻り、逆の手で彼女を抱き締めると、ルーラの身体も空気の層に包まれ、温かい涙が僕の首筋を濡らした。



 ◇ ◇ ◇



「いててててて」
「ごめん! アメル」

 随分我慢していたのだろう、それから(せき)を切るようにルーラがひとしきり泣いて、やはり泳ぎ進むプシケの背中で、身をよじって彼女を抱き続けるのは無理があったらしく、僕はついに弱音を吐いてしまった。

 凄く近い泣き顔と目が合って苦笑する。と、鼻を赤くしたルーラも泣いてすっきりしたようで、僕に笑顔を見せた。

「実はルーラが泣く前に、僕も先のことを考えてくよくよしてたんだ」

 体勢を整え、腰を伸ばして白状する。

「どんなこと?」

 涙が再び海水に溶け込んで、今まで通りに戻ったルーラが訊いた。

「この旅が終わったら、ルーラとは会えなくなるのかな……って」
「そんなこと……!」

 僕から言い出した手前説明したが、ちょっと後悔した。

「そんなことない! あたしがちゃんとシレーネになれたら、いつ海上に行ってもきっと誰も文句言わないし、ね? アメル、ずっと友達でいてくれるでしょ?」

 僕は想像以上に必死に否定するルーラに、驚きを隠せなかった。

 ──友達か……でもそれでいいんだよな。

「もちろん、ずっと友達だよ。でも僕は先のことなんて誰も分からないのだから、悩んだり決めつけるのはやめようって思ったんだ。だからルーラの姉さんもきっと変わるよ。何か理由があるとしても、それはいつか目に見えて、解決出来る道がきっと見つかる」

 それを聞いたルーラの安堵した表情だけが唯一の救いだった。きっとなんてありっこない。──ルーラと一緒にいられる方法なんて──。

 それから僕達はプシケを休ませるために何度か小休止して、宵闇が広がり出した頃、ようやく結界の西の端に辿り着いた。夕食を済ませるや一気に眠気に襲われ、プシケの背に寄りかかったまま眠ってしまった。

 繋がれたお互いの手の温もりを感じながら──。