Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]



「えーコホンコホン。お話がまとまったようですので、これよりお父上ジョルジョ様から、バースディ・プレゼントの進呈でございます」

 待ちきれない様子のトロールが口火を切り、徐々に暮れゆく岩場の宵闇は、松明(たいまつ)に照らされて華やかな祝いの席と化した。

「ルーラ、これを」

 父親から手渡されたのは、一通の封書であった。

「ありがとう……父様」

 早速開いて取り出されたのは、チケットのような厚紙の乗船切符である。

「サファイア・ラグーンへの……往復切符?」

 出航の日付は五月四日となっていた。二年前のその日のことは良く覚えている。アメルとラグーンへ旅立った日だ。ルーラはそれを思い出して、目の前の父親に胸の詰まったような面差しをした。

「偶然だよ、偶然! その航路でスペインへの仕事があるのでね。ラグーンへ行くならちょうどいいだろう」
「でも……アメルもいるのでしょ?」

 手の中の切符を見下ろした後、上目遣いで視線を合わせ、ルーラは遠慮がちに声を洩らした。何とか聞き取ったジョルジョは、さすがに困惑の声を上げてしまう。

「おいっ……人間になろうっていうのに、いつまでアメルに内緒にする気なんだ!?」
「だって……。もう何も出来ないままの自分でなんて……会いたくないの……」

 アメルと出逢った時。彼女は未だ外界のことを何も知らない赤子のような存在だった。人間になったらまたゼロからのスタートだ。せめて何歩かでも進んでから、彼に会いたい。もう守られるだけの無力な人形でなどありたくなかった。

「……随分と健気だな。ルーラの気持ちは良く分かったよ。アメルには手伝いを頼まれたと言って、友人の船に乗らせよう。それと……人間の身体を手に入れて一度結界へ戻ったら、私の家に住みなさい。テーアに出来得る限りを教えるように話しておくから」
「父様っ……!」

 ルーラは明るさを取り戻した表情を上げて、ジョルジョに思わず抱きついていた。が、父親がそれを受け止めようと背中に手を回すよりも速く、後ずさりをして俯いてしまう。これで本当に良いのだろうか? ──本当に本当に……これでいいの?

「あの……あたし、やっぱり……あたしだけがなんて……」

 ──いい訳がない。皆は誰かを好きになっても、人間になれることはないのだから──。

「そう言うと思って全員に訊いて回ったのよ。此処にいる皆はただ集まってもらったんじゃないの。ルーラが人間になることに賛成ならば、来てちょうだいってお願いしたのよ。良く見回しなさい……欠けた人魚なんて一人もいないでしょ?」

 カミルの言葉で再び上げられた視線が、全員のそれと合った。そして気付く。どんなに大勢であっても、欠席した者など思いつくことはないと。

「それにね。思うのよ、ルーラ。ウイスタ様があなたにシレーネを任せたことを後悔したのは、あの時ウイスタ様も、あなたがアメルに恋することを予知していたからじゃないかしら?」
「あっ……姉様、知っていたの?」

 カミルは温かな微笑みを崩すことなく大きく頷いた。

「あの場にはいなかったけれど、マルタからウイスタ様の最後の言葉は聞かされているわ。もう……自分で作り出した(しがらみ)から解き放たれなさい。もう皆のことは気にしなくていいの。それに、もしかしたら皆だって、人間になれる未来が来るかもしれないのよ? アーラ様が尽力されていることは、ラグーンへ行った人魚達から聞かされて、あなたも知っているでしょ? ──だから。そんな素敵な奇跡が起きることを信じて行ってちょうだい。その時のお手本になるためにも」
「姉様……でも! そうしたらシレーネは……」

 なかなか引き下がらない妹に、カミルは真摯に答え続けたが、最後の質問にはやや緊張した面持ちを戻して、再び補佐としての様相を表した。

「貴女様さえ了承してくだされば……私が引き継ぎます」
「……ねっ……姉様!?」

 カミルはルーラの全ての懸念を察していたに違いない。そして全てに誠実な答えを用意していた。しかしその中でも一番の難関がこれであると予測していたのであろう。ルーラの戸惑う瞳から逸らすことはなかった。それほどカミルの決意も堅固なものであったのだから。

「あなたが退く責を負おうと思っている訳ではないの。この二年補佐を任せていただいて、あなたの仕事に深く感銘を受けたわ。それを……いつの間にか私自身の手で御したいと思っていた。それに幸い私は誰にも恋していないもの。今はそちらよりもシレーネの仕事に興味があるのよ。一時的でも駄目かしら? 一つくらい、姉の頼みを聞いてくれてもいいでしょう?」

 意外な返しにたじろぐルーラは、返答に詰まってしまった。一度は賢い姉の方がシレーネになるべきだと考えたこともあったが、その時は未だ『恋』というものを知らなかった自分だ。今はそうでもいつの日か、恋の芽生えた姉に苦しみを与えないか、それを一番知っているのはこの自分なのだから──そう思えばこそ、頼まれても「うん」とは頷けない思いが、首を縦には振らせなかった。

「思っていたより頑固だな……カミルは一時的でもと言っているんだ。また『その時』が来たら考えればいいさ。ルーラも陸上から、幾らだって協力出来ることはある。皆の想いに応えてあげなさい」
「父様……」

 ひとたび父親を見上げた憂いの眼差しは、長いこと動けずにいたが、やがて姉の許へと戻され、とうとうルーラはコクリと一つ応じる仕草を見せた。途端にカミルの強い腕に包まれる。銀色のしなやかな髪が(なび)く目の前は、次第にぼんやりと輪郭を失くし、自分が泣いていることに気が付いた。

 ──アメルに……会えるんだ──。

 あの柔らかな瞳が、もう一度自分を見つめるのだと。あの優しい声が自分の名を呼び、返事をしても良いのだと思ったら、涙が溢れて止まらなかった。もう二度と視線の合うことも、彼の声に応えることも有り得ないと思っていたのに──。

「み……んな……あり、がと……」

 沸き立つ歓声とほどかれることのない抱擁に、雪崩れそうになりながら、ルーラは夢見心地に喜びを噛み締めていた。

 最高で最後の『人魚』としての誕生日が、胸に心に刻まれていった──。






◆次回が【δ】最終話になりますので、あと一話お付き合いください♪

 ウイスタの最後に遺した言葉の見解は、カミルの推測だけに留まりません。残りの見解は本編続編『薔薇の花言葉』にて、後ほど明かされますので、どうぞお楽しみに*