
翌日は春らしい暖かな陽気で、日暮れ時でも風はなく、美しい夕焼けの甘い蜜のような色彩が、清々しい空気を柔らかに変えていた。
「さて……今日の仕事はこれで終わりね。もう皆待っている筈よ。そろそろ行きましょう、ルーラ」
少し大袈裟に腕を伸ばして立ち上がったカミルの声が、二人きりの館の広間に、水紋を描くように響いた。
「え? あ、もうそんな時間?」
作業に夢中になっていたルーラは、はたと手を止めて姉の顔を見上げる。心なしか自分のためのパーティであることすら、忘れそうなほど集中出来ていた。
二人は片付けを終えて境界を抜け、琥珀色に輝く海上を目指した。いつもの岩礁の岸辺に手を着いて海面に顔を出し、水に囲われていない自由な空気を吸おうと開きかけた唇が、突然目の前に現れた掌に驚いて刹那止まる。ゆっくりと上げられた視界に、父親の優しい笑顔が映った。
「と、父様!」
そうして気付いた。カミルはジョルジョを招きたくて、此の地を会場に選んだのだと。
「おいで……私の愛しい娘」
──え?
ジョルジョはいつでもルーラに優しかったが、こんなにとろけてしまいそうな呼びかけをしたことはなかった。まるで恋人を誘うようなその口振りに、少々鼻の頭を赤くしたルーラは戸惑いながらも応じて、軽々と抱き上げられたが、魔法で身体を浮かせられるようになってからは、こうしてもらうことも減っていたことを少し淋しく思い出した。
「ルーラ、誕生日おめでとう」
ジョルジョの胸の中に抱かれたと思うや否や、立ち位置を変えるように半回転させられて、陸地を背にゆっくりと地面に降ろされた。祝いの言葉と共に、苦しくなる寸前の熱い抱擁を受ける。
「あ……ありがとう、父様……」
いつもと雰囲気の違う父親に、一体どうしたのだろうと微かに緊張を覚えた。
「昨年は航海で来られなかったからね。今年は早くから調整していたんだ。天気もいいし最高の誕生日だな。が……これが最後になるのかと思うと、ちょっと寂しいものだね」
「……最後?」
自分を解放して背を伸ばした父親の潤んだ瞳を見上げる。その微笑みには確かに寂しそうなニュアンスが窺えたが、『最後』とは何を意味するのか?
「さ……皆が主役をお待ちかねだ。君は本当に素晴らしかった。皆の想いを受け入れなさい」
「あの、父様、何がどう──」
言葉半ばにして両肩に置かれたジョルジョの厚みのある手が、勢い良く彼女を後ろへ振り向かせた瞬間、ルーラは思わず両手で口元を覆い、驚きの声を塞いでいた。
──どう……いうこと……?
彼女の瞳の映す範囲全てが、大勢の人魚達で埋め尽くされていたのだ。カミルの「内々で」という言葉では全く収まり切らないほどの、いや、おそらくは外界へ出られると決められた十六歳を過ぎた人魚全員が其処に立っていた。
「あーもうっ、息苦しいったらありゃしない……どいてどいてっ、えーと……ごきげんよう、シレーネ様。お誕生日おめでとうございます! 本日はあたい、いえ、あたくしが進行役を仰せつかりました」
「トロール……?」
人魚の群れの真ん中から、ひときわ大きな身体が現れた。幼馴染みで侍女のトロールは、その手に何やら書かれているのであろう一枚の紙片を持ち、掲げるや咳払いをして、その文面を読み上げた。
「う、ううんっ。えーこれより、シレーネ様十八歳の誕生日祝い、並びに……」
其処まで告げられた途端、全員の瞳がシレーネたるルーラへと向けられた。トロールも書面から視線を彼女へと移し、ルーラの右側には計ったように現れた、カミルの涼やかな横顔が立ち並んだ。
──姉様?
「並びに……。『シレーネ退任式』を行ないます」
「えっ……!?」
先程のようには驚きの声を洩らさせぬことは出来なかった。ルーラは再び口元に手をやったまま、硬直したように立ち尽くした。
──ダメだったと……言われたんだ──。
この二年間の自分はシレーネとしての役目を果たせなかったのだと、全てを否定されたのだと感じた。昨夜ようやく昔の気持ちを取り戻して、心新たに頑張ろうと思えた矢先だというのに。
「あなた……今、真逆の発想をしたわね? いつからそんなに後ろ向きな考えをするようになったの?」
隣のカミルが困ったように笑っていた。が、それもややあって引き締まり、ルーラの目の前に跪いて、頭を垂れ告げた。
「シレーネ様……貴女様はこの二年、十二分に働いてくださいました。これは成人した人魚達全員の一致した見解でございます。シレーネを引退し……アメリゴ=フェリーニの許へお向かいください」
「姉様……!?」
カミルはゆっくり立ち上がり、はにかんだ笑みを返す。
「ちょっとかっこつけ過ぎちゃったかしら? ルーラ……皆も認めているのよ。あなたは私達のために存分に尽くしてくれたわ。あなたがいなくても、やっていける自信を得たの。だから……もうアメルの所へ行ってあげなさい。その一生懸命は、アメルに捧げるべきなのよ」
目の前の人魚達全員が優しい瞳で見つめていても、まだルーラには事の状況を理解出来るほどの心の安穏が取り戻せていなかった。唯一はっきりと聞こえてきたのはアメルの名だけだ。アメルにどうしろと言われたのか?
「あなた、もしかして皆が昔の人魚のように、金髪の人魚を幽閉したいのだと思い込んでいるの? ──もう時代は変わったのよ。皆も全てを受け入れられたの。それにね……人魚の代表者シレーネ様が、こんなに恋する乙女なのだもの、未だ人間の男性に恋する人魚は少なくても、お陰様で結界の中は『恋に恋した人魚達』で溢れ返っているのよ、ルーラ」
珍しく饒舌なカミルが、固まったままのルーラへウィンクをしてみせた。
「それとも……我が娘は移り気で、もうアメルのことが嫌いになったのかい?」
背後から広い影で覆う父親の声に、呆然としていたルーラはハッとして振り返った。咄嗟に大声を上げる。
「そんなことっ……!」
──ある訳がない。あたしがアメルを嫌いになるなんて──。
「……分かっているよ、ルーラ。そしてアメルが君を嫌いになることもないだろう……天と地がひっくり返ったとしてもね」
「天と地が……?」
「それくらい有り得ないという意味だよ。一途に育ったのは父親としては嬉しいが、たとえアメルといえども、可愛い娘を他人に渡すのは寂しいものだな」
「?」
やっと我に返ったというのに、父親の口から飛び出す言葉はどれも彼女には難解だった。ジョルジョは吹き出しそうになる頬を歪めて、
「君もきっと親になれば分かることさ」
「……そういうものなの?」
「そういうものだ」
と、失笑を抑えて答えた。
◆ 此処までお読みいただきまして、誠に有難うございました!
こちら四話は文章的に長くなりましたのと、(特に後半)内容的にもかなり詰め込まれている為に、少々不自然ではございますが、ほぼ半分の位置で区切らせていただきました。全てが説明されませんと答えが見出されませんので、その辺り辛抱されてお読みいただけましたらと思います。ラストの五話にて、お気持ちスッキリ出来ますように頑張って挽回致しますので(汗)。
今回の文中にてございました以下の文章は、本編二作目『薔薇の花言葉』の五章一話最後の方で、ある人物に同じ台詞を言わせております(笑)。(初夏頃には掲載予定です)これが『繋がり』なのだなぁとしみじみ思っていただけましたら幸いです♪
>「そんなことっ……!」
──ある訳がない。(あたしがアメルを嫌いに)なるなんて──。
後書きまでお読みくださり、本当に有難うございました*



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