「──どう思う? 父様」
「……う、ん……もう限界なのだろうな」
船長室に戻った二人は再び同じ席に着き、同時に何とも言えない息を吐いた。
あれから気付かれないようにルーラの後を追い、一部始終を垣間見ていたのだ。
「そうよね……もうすぐ二年になるのだから」
俯いたカミルの表情も切ない。淹れてもらった紅茶にも手を伸ばせる気分ではなかった。
「潮時なのかも知れないね」
最近のルーラの様子がおかしいことはジョルジョにも気付けていた。笑顔が濁り、いつになく勉強に向ける眼差しは必死であることも……おそらく、其処にしか自分を置く場が見つからないのだろうとも。
「誰もあの子のことを責めたりなんてしないのよ。だけど途中で投げ出したりしたら、皆に申し訳ないと思っているのね。それに……自分だけが愛する人と共に生きるだなんて、と。……随分責任感のあるシレーネに育ってしまったわ」
困ったように薄く笑みを浮かべてはみたが、カミルにも感じるところがあるらしく、その瞳にはうっすらと水の膜が張っていた。
「君自身も相当責任感が強いと思っていたがね。テラの血を引いたのは、君だけではなかったということか」
「ルーラは母様だけでなく、父様の血も引いているのよ。私の比ではないのかもよ、父様」
意地悪そうに返されたカミルの台詞に、傾けた紅茶を零しそうになって、狼狽したジョルジョは少々赤面してみせた。
「君も言うようになったな……だが、あのままではルーラは壊れてしまうだろうね」
熱い紅茶を冷ます振りをして溜息をつき、ゆっくりと喉を潤す。温かな液体が胸を流れ落ちても、心は穏やかになれなかった。
「私、もうあの子を自由にしてあげたいのよ」
「カミル……」
テーブルに置かれたカップを包み込んで、彼女は父親の顔を見上げた。
「ウイスタ様がおっしゃった通り、あの子がシレーネを続ける必要はないと思うの。もちろん人魚界を変えるきっかけとしては必要だったことかもしれないわ。でも……それは初めだけで良かった。ずっとだなんて、もういいのよ──」
真剣な表情が妹を想う気持ち全てを表していた。それは金髪の人魚を縛りつけてきた、過去の銀髪の人魚とは、はっきりと一線を画していた。
「ルーラを人間に、ということかい?」
「父様、知っていたの?」
落ち着いてカミルの言いたい言葉を代弁したジョルジョに、彼女は驚きの眼を向けた。
「ああ……ちょっと或る所から情報を得ていてね。ルーラは人間になれるのだろう? 君はアーラ様から訊いたのかい?」
「ええ。ラグーンへ魔法を習いにいった時に。それで知ったのよ、ルーラ自身もそれを知っていることを……なのに、あの子は一切それを言わないわ。自分だけが人間になるなんて、許されないことだと思ってしまっているように」
「……ルーラも、知っているのか──」
救われない想いだな、と再びカップに唇を付ける。同時にカミルも紅茶を口に含んだ。やがて──。
「あの子は十分やってくれたわ。それに気付いていないのはルーラだけ……成人した人魚達は全員魔法を習得出来たし、外界のことも随分分かってきているの。それに人を──男性を愛するということも……」
初めて聞かされた意外な事実に、ジョルジョは驚きを隠せなかった。ルーラ以外にも人間に恋をした人魚がいる? それは?
「恋を知らなかった結界の人魚達が……世界は変わったんだな。そういうカミルはどうなんだ? 船員のほとんどは君に一目惚れしているが、君のお眼鏡に適う相手はいないのかい?」
咄嗟に向けられたカミルの瞳に、ジョルジョのおどけたウィンクが映った。が、どうやら返事はノーのようだ。カミルは笑いを堪えながら、
「それは女性としては光栄なお話ではあるけれど……残念ながら船乗りに恋をする予定はないわ」
と、きっぱり断言してみせた。
「随分とつれない回答だな……失恋した男共は何人になるんだ? しばらくは船上が葬式みたいになってしまうよ」
ジョルジョも同じような表情をして、冗談で済ませようとした。苦笑を合わせて目を細める二人。しかし少しの間があって、カミルは遠くを見つめるように、ジョルジョの向こうの壁に目をやった。
「私が父様と初めて会った時、ルーラのアメルを見つめる眼差しは本当に愛が溢れていて、誰も何も邪魔出来るものではないと思ったわ……外界を知らない頃のあの子は、何かと逃げ出しては海溝で昼寝と決め込んでいたけど、今は何処へ行くのか知ってる? ──結界内の一番浅い領域よ……十七年前、父様を想って海上を見上げていた母様を思い出してしまったわ……そう思えばこそ、あれは本気の気持ちなのだと思わずにはいられないし、私にそこまでの恋が出来るのかしらと、疑問にも思ってしまうわね、本当に」
そう話して戻された視線に、ジョルジョは再び顔を熱くさせた。
「……君もいつか良い恋に出逢うと思うがね……まぁこれぞと思う男が見つかったら、私に相談しなさい。これでも父親のつもりだからね」
カミルは無言で大きく頷き、いつになく口角を上げた。にこやかな笑顔はテラに生き写しだな、とジョルジョは思う。カミルにこんな笑顔を与えてくれる良き男性が現れることを、父親として心から願った。
「私の話は置いておいて……提案があるのよ、父様。あのね──」
更けゆく夜の海に浮かんだ船は、柔らかく揺れながら、若い二人の行く末を見守り続けていた──。

「……う、ん……もう限界なのだろうな」
船長室に戻った二人は再び同じ席に着き、同時に何とも言えない息を吐いた。
あれから気付かれないようにルーラの後を追い、一部始終を垣間見ていたのだ。
「そうよね……もうすぐ二年になるのだから」
俯いたカミルの表情も切ない。淹れてもらった紅茶にも手を伸ばせる気分ではなかった。
「潮時なのかも知れないね」
最近のルーラの様子がおかしいことはジョルジョにも気付けていた。笑顔が濁り、いつになく勉強に向ける眼差しは必死であることも……おそらく、其処にしか自分を置く場が見つからないのだろうとも。
「誰もあの子のことを責めたりなんてしないのよ。だけど途中で投げ出したりしたら、皆に申し訳ないと思っているのね。それに……自分だけが愛する人と共に生きるだなんて、と。……随分責任感のあるシレーネに育ってしまったわ」
困ったように薄く笑みを浮かべてはみたが、カミルにも感じるところがあるらしく、その瞳にはうっすらと水の膜が張っていた。
「君自身も相当責任感が強いと思っていたがね。テラの血を引いたのは、君だけではなかったということか」
「ルーラは母様だけでなく、父様の血も引いているのよ。私の比ではないのかもよ、父様」
意地悪そうに返されたカミルの台詞に、傾けた紅茶を零しそうになって、狼狽したジョルジョは少々赤面してみせた。
「君も言うようになったな……だが、あのままではルーラは壊れてしまうだろうね」
熱い紅茶を冷ます振りをして溜息をつき、ゆっくりと喉を潤す。温かな液体が胸を流れ落ちても、心は穏やかになれなかった。
「私、もうあの子を自由にしてあげたいのよ」
「カミル……」
テーブルに置かれたカップを包み込んで、彼女は父親の顔を見上げた。
「ウイスタ様がおっしゃった通り、あの子がシレーネを続ける必要はないと思うの。もちろん人魚界を変えるきっかけとしては必要だったことかもしれないわ。でも……それは初めだけで良かった。ずっとだなんて、もういいのよ──」
真剣な表情が妹を想う気持ち全てを表していた。それは金髪の人魚を縛りつけてきた、過去の銀髪の人魚とは、はっきりと一線を画していた。
「ルーラを人間に、ということかい?」
「父様、知っていたの?」
落ち着いてカミルの言いたい言葉を代弁したジョルジョに、彼女は驚きの眼を向けた。
「ああ……ちょっと或る所から情報を得ていてね。ルーラは人間になれるのだろう? 君はアーラ様から訊いたのかい?」
「ええ。ラグーンへ魔法を習いにいった時に。それで知ったのよ、ルーラ自身もそれを知っていることを……なのに、あの子は一切それを言わないわ。自分だけが人間になるなんて、許されないことだと思ってしまっているように」
「……ルーラも、知っているのか──」
救われない想いだな、と再びカップに唇を付ける。同時にカミルも紅茶を口に含んだ。やがて──。
「あの子は十分やってくれたわ。それに気付いていないのはルーラだけ……成人した人魚達は全員魔法を習得出来たし、外界のことも随分分かってきているの。それに人を──男性を愛するということも……」
初めて聞かされた意外な事実に、ジョルジョは驚きを隠せなかった。ルーラ以外にも人間に恋をした人魚がいる? それは?
「恋を知らなかった結界の人魚達が……世界は変わったんだな。そういうカミルはどうなんだ? 船員のほとんどは君に一目惚れしているが、君のお眼鏡に適う相手はいないのかい?」
咄嗟に向けられたカミルの瞳に、ジョルジョのおどけたウィンクが映った。が、どうやら返事はノーのようだ。カミルは笑いを堪えながら、
「それは女性としては光栄なお話ではあるけれど……残念ながら船乗りに恋をする予定はないわ」
と、きっぱり断言してみせた。
「随分とつれない回答だな……失恋した男共は何人になるんだ? しばらくは船上が葬式みたいになってしまうよ」
ジョルジョも同じような表情をして、冗談で済ませようとした。苦笑を合わせて目を細める二人。しかし少しの間があって、カミルは遠くを見つめるように、ジョルジョの向こうの壁に目をやった。
「私が父様と初めて会った時、ルーラのアメルを見つめる眼差しは本当に愛が溢れていて、誰も何も邪魔出来るものではないと思ったわ……外界を知らない頃のあの子は、何かと逃げ出しては海溝で昼寝と決め込んでいたけど、今は何処へ行くのか知ってる? ──結界内の一番浅い領域よ……十七年前、父様を想って海上を見上げていた母様を思い出してしまったわ……そう思えばこそ、あれは本気の気持ちなのだと思わずにはいられないし、私にそこまでの恋が出来るのかしらと、疑問にも思ってしまうわね、本当に」
そう話して戻された視線に、ジョルジョは再び顔を熱くさせた。
「……君もいつか良い恋に出逢うと思うがね……まぁこれぞと思う男が見つかったら、私に相談しなさい。これでも父親のつもりだからね」
カミルは無言で大きく頷き、いつになく口角を上げた。にこやかな笑顔はテラに生き写しだな、とジョルジョは思う。カミルにこんな笑顔を与えてくれる良き男性が現れることを、父親として心から願った。
「私の話は置いておいて……提案があるのよ、父様。あのね──」
更けゆく夜の海に浮かんだ船は、柔らかく揺れながら、若い二人の行く末を見守り続けていた──。




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