Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]

◆時点は十二章、及び【γ】の後となります。

 人魚の長「シレーネ」として立派に務めると誓ったルーラが、アメルの許を離れて二年、彼女の心に『変化』が現れ始めた。気付いた姉カミルと父ジョルジョが思い立った『粋な計らい』とは?






「……お、もうこんな時間か……そろそろ終わりにするとしよう」

 ジョルジョはいかにも遅いぞ、と言いたそうな仕草で懐中時計を見やり、パチンと軽快な音を立てながらその蓋を閉じた。顔を上げ、目の前の二人に微笑みを向ける。

「そうね。ルーラ、今夜はここまでにしましょう」
「でも……姉様(ねえさま)、まだ今回の分まで進んでいないわ」

 隣に腰かけたカミルの視線に、ルーラは少し不服な様子を見せ、続きをせがんだ。が、二人はもうこれ以上付き合うつもりはなさそうだ。

父様(とうさま)も航海の途中なのよ。余り負担を掛けてはいけないわ」

 妹の熱心さに少々当惑気味ながら、其処は姉としてシレーネ補佐として、カミルに余念はない。そう言われてはもはや返す言葉もないルーラは、残念な様子で目の前の分厚い本を閉じた。

「ごめんなさい、父様……あたし、つい」
「いや……結界の上を通る時は、少しばかり出航を早めているんだ──船員達には悪いがね。だから別段航海に支障はないが、君達も休まないとだろう」

 ジョルジョは立ち上がり、授業を終えてからの毎度のお楽しみ、妹テーアの紅茶を娘達に振る舞うために、立ち上がって準備を始めたが、

「父様、今夜は気にしないで。姉様、帰りましょう」

 ルーラは申し訳なさそうに、その手を止めていた。

「私が急かしたのに、こんなことを言うのもなんだけど……少しだけ父様に話があるのよ。ルーラ、先に戻っていてくれる?」
「え? あ、うん。それじゃ父様、おやすみなさい」

 カミルは苦笑しながら白状し、ルーラは戸惑いながらも父親の頬に口づけて船長室を後にした。

 地中海──結界の海上。

 彼女達が、通過するジョルジョの船を見つけては乗り込み、人間世界を学ぶようになって、もう何十回目となっただろう。
 途中から侍女達も参加しているが、今夜は遅い訪問となったため、ルーラとカミルのみが乗船していた。

 ルーラは静かに扉を閉めて、自身を魔法で浮かび上がらせ、普段なら甲板から海の底を目指すところを、思い立ったように船尾の方角にある階下の船室へと向かった。

 まだ春先の深夜は空気が澄み渡って、空も海も黒曜石のような輝かしい闇を映し出している。しかしルーラの瞳はどちらも見ようとはしていなかった。唯一つ、目に入れたいのは──

「アメル……」

 彼女が扉を開いた所為で、暗い大部屋に廊下の照明が射し込まれる。一番手前でその光に照らされたのは、彼の穏やかな寝顔だった。

 既にそうせずとも眠りに落ちる時間ではあったが、ルーラは念を入れて魔法で船員達を眠らせていた。だから誰も目を覚ますことなどない。どんなに近付いても──気付かれない。
 それでもゆっくりと進んで、静かに彼の目の前にしゃがみ込んだ。(はしばみ)色の髪が頬を隠していたが、それを寄せる勇気もなかった。

 以前の彼女は魔法を解いた後の彼の様子を、遠くから垣間見る程度であった。その間の記憶はないので、アメルも船員達も時が止まっていたかのように、眠る前の仕事を不審を帯びることもなく再開するだけだ。仲間に向ける笑顔や、作業を行なうひたむきな姿を見られるだけで、ルーラは幸せだった。そうであった筈なのに──。

 ──あたし、どうかしちゃったのかしら──。

 今までにもこうして独り、彼に近付ける機会を得てきたが、ここ数回はずっとこの調子だ。あと少し手を伸ばせば、触れられる距離にまで迫ってしまっている。けれどそれはせずにいた。だけど……でも──。

 ルーラは彼のベッドに両腕を乗せ、手の甲に頬を置いて、(かし)げるようにアメルの寝顔を眺めた。柔らかな寝息が聞こえる。手前に差し出されるように投げ出された右手が、二年ほど前には自分だけの物であったのに、今は一番触れてはいけない物のように感じられた。

 ──アメル、あたし後悔してるのよ。あなたに自分の鱗を渡してしまったことを。どうしてあんなことを言っちゃったのかしら。『持っていてくれたら……いつかきっとまた会えるから』なんて……あたしの中にシレーネを辞める意思なんてないのに──。

 自分は欲張りだったのだと責めずにはいられなかった。人魚界を改革したい。でもアメルからの想いも失いたくない。そんなこと、彼を脅迫しただけに過ぎなかった。あんな風に渡してしまったら、誰でも未来を期待するだろう……結局自分は嘘つきだっただけだ。

 ──あたし、強くなったの? あれから一度も泣いたことないのよ……あなたの前ではあんなに沢山泣いたり、取り乱したりしたのに。

 その問いかけは目の前の彼に向けたものではなく、自身への詰問(きつもん)だった。それでも彼女にはもう分かっていた。強くなったのではないことを。泣けないのは、満たされないからだ。あの時、どんなに感情をさらけ出しても、アメルは優しく全身で受け止めてくれた。零れた想いは彼が全て(すく)い、何処にも落ちることはなかった。けれど今は……流した涙は海に(さら)われてしまう。あてもなく漂って、きっと自分に戻ってくる。

 渡した鱗の居所は常にアメルの傍で感じられていた。それを持ち去れば彼は気付くのだろう。もう自分が戻らないことを。そうすれば、せめてアメルの心は解放されるのではないのだろうか? 自分のそれは、ずっと彼への想いで縛りつけられていたとしても。

「でも……ごめんなさい。まだ……出来ないの」

 呟くように繋いだ言葉で、自分を嘲笑った。馬鹿だ……やっぱり弱いままの自分が、アメルを自由に出来ないと言っている。

 ──あ……。

 その時ピクリとほんの少しだけ、彼の指先が動いた感じがした。魔法をかけているのだから、死んだように動かない筈なのに。

 ──ごめんなさい、ごめんなさい、アメル──。

 ちょっとだけ、ちょっとだけよ、と自分に言い聞かせて、その人差指の先をキュッと摘まんでしまった。硬い爪の感触と指の腹から伝わる温かさ。想いが溢れて、どうにかなってしまいそうだ。

「え……?」

 自分でも驚いて刹那その指先を離した。慌てて立ち上がり、茫然と眼下のアメルを見つめ、逃げるように部屋を飛び出した。

 それから数分して、魔法の解けたアメルはふと目を覚まし、右手人差指の不思議な違和感に目を留めた。
 その掌には一滴の水玉が乗っている──涙?

「……ルーラ……?」

 何心なく口に出た疑問は、彼女の名を呼んでいた──。