「ねぇえ……船長? ジョルジョ船長!」
「え? ああ……何だい、イレーネ?」
翌朝、まだ薄く靄の立つ海岸線から、勢い勇んで現れたイレーネに連れられて、彼女達の家を訪問したジョルジョは、眠気眼を擦りながらその大声に応えた。
「わたしの話、聞いてなかったのっ?」
戸口の隣に置かれた椅子に腰かけ、簡素な朝食をほおばりながらも、イレーネの視線と苛立ちは船長へ向けられている。
「朝っぱらからそんなに怒鳴らんでくれ……今回の航海はなかなかの遠方だったんだよ。ようやく陸でゆっくり休めるのかと思ったのに、こんな早くから呼び出されるとは……君も随分と早起きだな」
「だから船長には豪勢な朝食を用意したじゃない。って、話を置き換えないで! あの新入りの男の子──ア、アメルって言ったっけ? 彼は何で想い人に会えないのよ?」
ジョルジョは既に供された彼女手作りの食事を平らげ、庭先で早速頼まれた作業を始めていた。夜の長いクロエは案の定依然夢の中だ。
「それは結構なご執心だな……アメルに惚れたのかい?」
珍しく意地悪そうな表情をしたジョルジョが反撃に出たが、イレーネはごまかすように瞳を逸らして、
「ち、違うわよ。昨日花を買ってってお願いしたら、渡したい相手には会えずにいるからって断られたの! その時……とっても悲しい顔をしたから気になっただけよ」
そう言い訳した彼女自身も悲しみの表情をしていたことに、本人は気付いていなかった。
ジョルジョは観念したように手を止め、再びテーブルを挟んでイレーネの目の前に座す。彼がわざわざ戻ってきたことが、少女の鼓動を少しばかり速めていた。
「何処から説明したらいいかな……アメルの想い人は、実は私の娘なんだ」
──えっ!?
声も出ないほど驚いた。
「どういうこと? ジョルジョって独身じゃなかったの!?」
テーブルに手を突いて噛みつくイレーネに、ジョルジョは困ったように頬を上気させてみせた。こんな船長を見るのは初めてだと、ふと昔を顧みる。
「……ふぁあ~イレーネ、朝から騒がしいわよー、あ~ら、ジョルジョ! 久し振りじゃないっ、あたしの顔が見たくなって戻ってきたのぉ?」
本題に入ろうと口を開いた矢先、ジョルジョの背後となった戸口から現れたクロエが、相変わらずの妖艶な姿で、再会を喜ぶように彼の背中へ抱きついていた。が、そんな彼女の誘惑はもう生活の一部だ。ジョルジョは眼前に差し出された細い手をポンポンッと叩き、よしなさいとばかりにそれを退かせてみせた。
「相変わらずつれないわねぇ~、ちょうど独りに戻ったところなのよ、今夜のお相手をしてちょうだい」
「君はちっとも変わらないなぁ、クロエ。『独り』が一日続いたことなどなかっただろう? ベッドの中にはまた新しい誰かがいるんだろ?」
二人の間に仁王立ちになったクロエを、頬杖を突いた船長は呆れたように見上げる。図星の表情をした母親に、イレーネは大きな溜息をついた。
「ねぇ、話の続きを聞かせて」
「あ? ああ……実際婚姻を結ぶまでには至らなかったがね、私も若い頃に一人の愛する女性を得た。彼女との間には娘を一人授かったんだが、ちょうど一年ほど前に再会を果たしたんだよ」
「ちょっと、ジョルジョ! ついにテラさんを見つけたの!?」
──テラ?
庭の端からもう一脚を寄せてきたクロエが、瞳を輝かせるように叫び、会話に加わるべく腰を据えた。
「母さん、知ってるの?」
「まぁね! だって生まれてこの方、あたしの誘惑に乗らなかったのはこの人だけよー! 理由を聞かない訳にはいかないじゃない!」
「まったく……ナイフを突きつけられて脅されたら、言わずにはいられないだろう……」
そうして二度目の呆れ顔を見せるジョルジョ。てっきり家の修繕をしてくれるのは『夜のお相手』のお礼なのだろうと思っていたイレーネは、船長に尊敬の眼差しを寄せた。
「残念ながら、テラには会えなかった……でも十六年生き別れになっていた娘に会えたんだ。本当に嬉しかったよ」
そう言って、テーブルに置いた両拳に目を向ける船長の笑顔は、本当の幸せを表していた。十六年なんて、ほとんど自分の人生と一緒だと少女は思う。
「娘は君と同い年でね、その少し前にアメルと出逢い、二人はある場所を目指して旅していた。彼女は狭い世界に閉じ込められていたから、世の中を良く知らないまだ弱い存在だったが、そんな娘を真摯に守ってくれていたのが彼だったんだ」
「弱い……存在──」
正面のジョルジョの熱い眼差しが微かに震えて見えた。涙がこみ上げているのだろうか? それはきっと色々な想いや思い出が絡み合って生じたものなのだろうが、その中にはアメルという一青年を、立派な大人と認めている気持ちの表れもあるように思えた。
「あの……それでどうしてアメルは、船長の娘さんと会えずにいるの? どこか遠い所にいるの?」
「う……む──」
そこで難しい顔をしたジョルジョは、言葉に詰まってしまった。──が、
「遠くはないんだが……私達の行ける場所ではないんだ。その旅を終えて、娘は自分の世界に帰った。彼女には大きな使命があってね、それをやり遂げなければならない……だからアメルには会えないと……」
「あなたも会えていないの? ジョルジョ」
やっと落ち着いた口調で、クロエも問い掛ける。
「いや……航海の途中で近くを通った際には時々会っているよ。彼女達は広い世界を学ばなくてはいけないからね、私やカルロがそれを教えているんだが、アメルにはどうしても会えないと娘が言い張ってね」
「あらん……そのアメル君も可哀想だわね」
そうして両掌で頬杖を突いたクロエと同時に、イレーネも同じ仕草をして一点を見つめ、思った。
──同じ女だから分かるわ。きっと船長の娘さんも辛いんだ。だってあんなに優しい瞳と優しい声に触れたら、自分の世界に戻れなくなる……ましてやあの声で「好き」だなんて言われてしまったら、あの瞳で見つめられてしまったら、その瞬間……わたしには良く分からないけど、そんな「大きな使命」とやらにも向かえなくなるわ──きっと。
「ねーそのアメル君、あなたの船にいるの?」
「おいおい、やめてくれよクロエ。自分の娘と変わらない歳の少年だぞ! 大体私以上に靡かないよ、私が言うのもなんだが、うちの娘にぞっこんだからな」
ぼんやりと埋まるアメルの切ない彼女への想いと彼の面影に満たされながら、目の前のくだらないやり取りを傍観していたイレーネであったが、ふと思いついた質問を船長にぶつけていた。
「あの、船長……船長はずっとこのままでいいの? 娘さんの使命はいつ終わるの? その時二人はまた会えるの?」
ジョルジョにじゃれつくクロエすら止まってしまうような、淋しい声をしていた。
「……残念ながら私は見守ることしか出来ない。それは彼らが彼ら自身で決めることだ、イレーネ。娘がその使命に区切りをつけてアメルの許へ向かうのも、アメルを諦めることも……そしてアメルが、待つことをやめる時を決めるのも彼次第だ。でもね、君が心配しているように、私も気付いているよ。アメルはそれをやめないだろう、と……だからアメルに好意を寄せるのは、お勧め出来な──」
「もうっ、違うって言ってるでしょ! わたしは別に……あれ? あれれ?」
「イレーネ……」
ジョルジョの台詞を遮ってまで否定した筈なのに、目の前に溢れ出したのは大粒の涙だった。
それは二人の途切れることのない強い絆を前にして、袋小路しか見出せなかった自分の恋の結末を知ったからなのだろうか──?
「え? ああ……何だい、イレーネ?」
翌朝、まだ薄く靄の立つ海岸線から、勢い勇んで現れたイレーネに連れられて、彼女達の家を訪問したジョルジョは、眠気眼を擦りながらその大声に応えた。
「わたしの話、聞いてなかったのっ?」
戸口の隣に置かれた椅子に腰かけ、簡素な朝食をほおばりながらも、イレーネの視線と苛立ちは船長へ向けられている。
「朝っぱらからそんなに怒鳴らんでくれ……今回の航海はなかなかの遠方だったんだよ。ようやく陸でゆっくり休めるのかと思ったのに、こんな早くから呼び出されるとは……君も随分と早起きだな」
「だから船長には豪勢な朝食を用意したじゃない。って、話を置き換えないで! あの新入りの男の子──ア、アメルって言ったっけ? 彼は何で想い人に会えないのよ?」
ジョルジョは既に供された彼女手作りの食事を平らげ、庭先で早速頼まれた作業を始めていた。夜の長いクロエは案の定依然夢の中だ。
「それは結構なご執心だな……アメルに惚れたのかい?」
珍しく意地悪そうな表情をしたジョルジョが反撃に出たが、イレーネはごまかすように瞳を逸らして、
「ち、違うわよ。昨日花を買ってってお願いしたら、渡したい相手には会えずにいるからって断られたの! その時……とっても悲しい顔をしたから気になっただけよ」
そう言い訳した彼女自身も悲しみの表情をしていたことに、本人は気付いていなかった。
ジョルジョは観念したように手を止め、再びテーブルを挟んでイレーネの目の前に座す。彼がわざわざ戻ってきたことが、少女の鼓動を少しばかり速めていた。
「何処から説明したらいいかな……アメルの想い人は、実は私の娘なんだ」
──えっ!?
声も出ないほど驚いた。
「どういうこと? ジョルジョって独身じゃなかったの!?」
テーブルに手を突いて噛みつくイレーネに、ジョルジョは困ったように頬を上気させてみせた。こんな船長を見るのは初めてだと、ふと昔を顧みる。
「……ふぁあ~イレーネ、朝から騒がしいわよー、あ~ら、ジョルジョ! 久し振りじゃないっ、あたしの顔が見たくなって戻ってきたのぉ?」
本題に入ろうと口を開いた矢先、ジョルジョの背後となった戸口から現れたクロエが、相変わらずの妖艶な姿で、再会を喜ぶように彼の背中へ抱きついていた。が、そんな彼女の誘惑はもう生活の一部だ。ジョルジョは眼前に差し出された細い手をポンポンッと叩き、よしなさいとばかりにそれを退かせてみせた。
「相変わらずつれないわねぇ~、ちょうど独りに戻ったところなのよ、今夜のお相手をしてちょうだい」
「君はちっとも変わらないなぁ、クロエ。『独り』が一日続いたことなどなかっただろう? ベッドの中にはまた新しい誰かがいるんだろ?」
二人の間に仁王立ちになったクロエを、頬杖を突いた船長は呆れたように見上げる。図星の表情をした母親に、イレーネは大きな溜息をついた。
「ねぇ、話の続きを聞かせて」
「あ? ああ……実際婚姻を結ぶまでには至らなかったがね、私も若い頃に一人の愛する女性を得た。彼女との間には娘を一人授かったんだが、ちょうど一年ほど前に再会を果たしたんだよ」
「ちょっと、ジョルジョ! ついにテラさんを見つけたの!?」
──テラ?
庭の端からもう一脚を寄せてきたクロエが、瞳を輝かせるように叫び、会話に加わるべく腰を据えた。
「母さん、知ってるの?」
「まぁね! だって生まれてこの方、あたしの誘惑に乗らなかったのはこの人だけよー! 理由を聞かない訳にはいかないじゃない!」
「まったく……ナイフを突きつけられて脅されたら、言わずにはいられないだろう……」
そうして二度目の呆れ顔を見せるジョルジョ。てっきり家の修繕をしてくれるのは『夜のお相手』のお礼なのだろうと思っていたイレーネは、船長に尊敬の眼差しを寄せた。
「残念ながら、テラには会えなかった……でも十六年生き別れになっていた娘に会えたんだ。本当に嬉しかったよ」
そう言って、テーブルに置いた両拳に目を向ける船長の笑顔は、本当の幸せを表していた。十六年なんて、ほとんど自分の人生と一緒だと少女は思う。
「娘は君と同い年でね、その少し前にアメルと出逢い、二人はある場所を目指して旅していた。彼女は狭い世界に閉じ込められていたから、世の中を良く知らないまだ弱い存在だったが、そんな娘を真摯に守ってくれていたのが彼だったんだ」
「弱い……存在──」
正面のジョルジョの熱い眼差しが微かに震えて見えた。涙がこみ上げているのだろうか? それはきっと色々な想いや思い出が絡み合って生じたものなのだろうが、その中にはアメルという一青年を、立派な大人と認めている気持ちの表れもあるように思えた。
「あの……それでどうしてアメルは、船長の娘さんと会えずにいるの? どこか遠い所にいるの?」
「う……む──」
そこで難しい顔をしたジョルジョは、言葉に詰まってしまった。──が、
「遠くはないんだが……私達の行ける場所ではないんだ。その旅を終えて、娘は自分の世界に帰った。彼女には大きな使命があってね、それをやり遂げなければならない……だからアメルには会えないと……」
「あなたも会えていないの? ジョルジョ」
やっと落ち着いた口調で、クロエも問い掛ける。
「いや……航海の途中で近くを通った際には時々会っているよ。彼女達は広い世界を学ばなくてはいけないからね、私やカルロがそれを教えているんだが、アメルにはどうしても会えないと娘が言い張ってね」
「あらん……そのアメル君も可哀想だわね」
そうして両掌で頬杖を突いたクロエと同時に、イレーネも同じ仕草をして一点を見つめ、思った。
──同じ女だから分かるわ。きっと船長の娘さんも辛いんだ。だってあんなに優しい瞳と優しい声に触れたら、自分の世界に戻れなくなる……ましてやあの声で「好き」だなんて言われてしまったら、あの瞳で見つめられてしまったら、その瞬間……わたしには良く分からないけど、そんな「大きな使命」とやらにも向かえなくなるわ──きっと。
「ねーそのアメル君、あなたの船にいるの?」
「おいおい、やめてくれよクロエ。自分の娘と変わらない歳の少年だぞ! 大体私以上に靡かないよ、私が言うのもなんだが、うちの娘にぞっこんだからな」
ぼんやりと埋まるアメルの切ない彼女への想いと彼の面影に満たされながら、目の前のくだらないやり取りを傍観していたイレーネであったが、ふと思いついた質問を船長にぶつけていた。
「あの、船長……船長はずっとこのままでいいの? 娘さんの使命はいつ終わるの? その時二人はまた会えるの?」
ジョルジョにじゃれつくクロエすら止まってしまうような、淋しい声をしていた。
「……残念ながら私は見守ることしか出来ない。それは彼らが彼ら自身で決めることだ、イレーネ。娘がその使命に区切りをつけてアメルの許へ向かうのも、アメルを諦めることも……そしてアメルが、待つことをやめる時を決めるのも彼次第だ。でもね、君が心配しているように、私も気付いているよ。アメルはそれをやめないだろう、と……だからアメルに好意を寄せるのは、お勧め出来な──」
「もうっ、違うって言ってるでしょ! わたしは別に……あれ? あれれ?」
「イレーネ……」
ジョルジョの台詞を遮ってまで否定した筈なのに、目の前に溢れ出したのは大粒の涙だった。
それは二人の途切れることのない強い絆を前にして、袋小路しか見出せなかった自分の恋の結末を知ったからなのだろうか──?



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