Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]

◆時点は十二章の後になります。

 ルーラと別れて一年のアメルに訪れた出逢い。彼を見つめる切ない瞳から、アメルの成長が窺えます*








 イカロスの羽ばたいたクレタの空は、天高く真っ青に輝いて、入港した彼らの船を歓迎していた。

 首府イラクリオの大きな港は活気に満ち溢れ、船乗り達を目当てにした物売りの張り上げる大声は騒がしいが、それを買い漁る男達の表情は明るい。

「船長……? ジョルジョ船長じゃない!? 何よぉ、随分とご無沙汰だったじゃない!」

 船を岸に留めるため(もやい)を結んでいたジョルジョは、背後からの怒ったような声に気付き、ゆっくりと振り返った。

「おお、イレーネじゃないか! 久し振りだな、元気だったかい?」

 夕暮れ前の涼しい風が吹いているが、少し汗ばんだ様子で懐かしい笑顔を向ける。

「久し振りどころじゃないわよ、もう一年になるんじゃない? まったく……こんな美人を放っておいたら、どうなるか分からないのっ?」

 小柄な身体からは想像もつかない剣幕で、長身のジョルジョを叱りつけたイレーネは、大きな花籠を足元に置き、両手を腰に当てふくれっ面を見せた。

「おいおい、まさかご機嫌斜めだな……今日の売れ行きは悪くなさそうだが? ……仕方ないさ、此処に立ち寄るような仕事がなかったんだ。クロエも変わらずにいるのかい?」

 困ったような表情をしながらも、会話を楽しんでいる船長だが、当のイレーネは出てきた名前に、益々虫の居所が悪くなりそうだった。

「どいつもこいつも! 何よ、クロエ、クロエって母さんのどこがいいっての? みんな見る目がないんだから! その母さんに朝から小言を言われてこのザマよ。母さんの男が逃げたのは、わたしの所為じゃないのにーいっ!」
「これは参ったな……では怒らせてしまったお詫びに、その残り全部を頂くとするよ」

 ジョルジョは後頭部を掻きながらとうとう白旗を揚げたが、編み込んだ赤茶色の髪を揺らしたイレーネはプイっと横を向き、腕を胸の前で組みながら、

「あら、それはありがとう、船長さん。でも同情で買ってもらうなんて結構よ。そこまで落ちぶれちゃいないわ。第一、花を買ったって、わたし以外に贈る女性もいないでしょ?」

 そう言って見上げた悪女のような横目遣いは、クロエにそっくりだな、とジョルジョは苦笑いをした。

「こんなおじさんをからかって一体何が面白いんだ? クロエもイレーネも器量はいいが、間違いなく尻に敷いてくれそうだな。大体君は幾つになった? ん……? もしかしてルーラと同い年か」
「……ルーラ?」

 空を見上げて考えを巡らした船長に、知らない名前を聞いたイレーネ自身も彼の視線の先を見上げた──その時。

「あの……船長。(もやい)は僕が」

 広い背に隠れて見えないが、遠慮がちに掛けられたその声は何て優しそうなのだろうと、イレーネは思っていた。振り返った船長の向こうに、淡い茶色の髪の青年が映り込む。

「あ、ああ、悪いね。知り合いのお嬢さんと話し込んでしまった。宜しく頼むよ」

 手に持ったままの舫を渡して、こちらへと向き直った船長に、そのほっそりとした姿は隠されてしまった。

「ねぇ……新入り? 確か一年くらい前にも入れたわよね? あの子はダメだったの?」

 ひょいと首を傾けてジョルジョの背後に目を向けたが、杭のこちら側で腰を降ろして結んでいるため、背中程度しか見えない。

「フルボのことか? あいつはちょっと悪さをしてくれてね……解雇したよ。彼はその後に雇ったんだ。アメリゴ──皆はアメルと呼んでる」
「ふうん……」
「さぁ、君もこんな所で花を買いそうもないおじさんなんかと話していないで、売りに戻らないとまた親方にどやされるだろう? 私は港の事務所に申請を出してこないと閉まってしまうからね、三日後の出航まではいつもの宿にいるから、また家の修繕を頼みたいなら其処へおいで」
「あ、うん……ありがとう、船長」

 胸元から懐中時計を取り出して時間を確かめたジョルジョは、背中に挟み込んでいた書類を手に取り、軽くウィンクを投げかけ去っていった。目の前では片付けを済ませて宿へ向かう船員達の群れが、屈み込んだ青年に声を掛けては消えていく。きつく結ぼうと働く腕の筋肉が、船乗りにしてはがっしりとし過ぎていなくて美しいと思った。最後の船員より宿の場所を教えられるため、立ち上がって目を向けた先から視線がこちらに移った時、初めて合わせた澄んだ瞳に、一瞬イレーネの心は何処かへ連れ出されたみたいな衝撃を感じた。

「カ、カリスベラ(こんばんは)

 言ってしまった後で、まだその挨拶は早いかしら? と少し頬を赤らめる。

「えと……カリスベラ。ごめんね、ギリシャ語あんまり分からないんだ」

 それでも片言のギリシャ語で返したアメルは、最後の確認を終えて自分の荷を取った。

「わたし、イタリア語も解るわ」
「あ……良かった」

 はにかんだ表情は安堵の色を見せている。港で知らない少女から声を掛けられることなど滅多にない所為もあって、少し緊張もしていたが、言葉が通じることで得た気持ちでもあり、周りにひやかす船員達がいないことも理由の一つだった。

「ジョルジョ船長は小さい頃からの知り合いで、ここに来る度、女手しかない我が家を直しに来てくれるの。あ、わたし、イレーネ。あなたは?」

 先程船長に教えてもらったが、本人の口から聞きたいと思ったのだ。

「アメリゴです。宜しく」

 そう一言、笑顔で答えてくれたものの、愛称を教えてくれなかったことに、彼女は少し淋しさを感じていた。

「ごめんね、そろそろ行かないと」

 申し訳なさそうに目の前を過ぎる青年を、薄く笑んでやり過ごそうとしたが、彼の背中が見えた刹那、いつの間にか呼び止めてしまっていた。

「あ、あのっ、アメル!」
「え……?」

 再び合わさる視線。

「しばらくいるって聞いたわ。ま、また会える?」

 驚くほどの直球な質問に、我ながら(おのの)く。そんな自分に動揺した彼女は、いつの間にか彼を愛称で呼んでしまっていたことも気付けずにいた。

「あ、うん……でも、僕なんかに、何故?」

 案の定戸惑いを隠せないアメルに、何を言ったら良いのか分からなくなったイレーネは、ふと目の前に置き去りにした自分の花籠へと目を留めた。

「ええと……私、花売りなの。綺麗な花を仕入れておくから、後で買ってちょうだい!」

 ──そんなことでしか引き止められないのかしら……こんな時、母さんならどうやって誘うのよ……男に困ったことのないクロエの娘が情けないわ──。

「ありがとう、イレーネ」

 落ち込んで足先に落としていた視界が、名を呼ばれたことで一気に持ち上げられた。

「でも……ごめんね。花を買っても……渡したい女性(ひと)には、会えずにいるから──」

 ──あ……。

 そう声を上げそうになった唇を何とか押しとどめていた。

 ──何て……何て、哀しい笑顔をするんだろう。

 けれども一度伏せた後、再び彼女を瞳に入れた時には、もうアメルの(おもて)には哀しみの(かげ)りはなかった。うっすらと笑み、(きびす)を返して駆けていってしまう。

「あ……」

 独りになった船の横で、イレーネは今一度声に出して呟いていた。

 アメルの哀しみの先に、その女性への深い愛情が見え隠れしていたから──。