そしてあれから月日は流れ、五年の歳月が過ぎた──。
ルーラの父さんのお陰で、僕は一人前の船乗りになっていた。
「じゃあな、アメル。私は一旦家に帰るが、近い内顔を出すから宜しく言ってくれ」
「はい」
僕の背中に笑顔とウィンクを投げたジョルジョへ、日に焼けた顔で振り返りながらそう答えた。
小さな荷物を抱え船を降り、港の石段を登る。
活気のある市場の雑踏と喧騒を抜け、ふと熱視線の太陽に引き止められた感じがして背後を見上げた先に、思わず手をかざしたくなるほどの金色の世界が広がっていた。
──眩しい……。
あの時もこんな光溢れる春の陽差しだったっけ。
腐りかけた階段を登りきった時の、あの光景。
太陽色の髪をなびかせて振り向いた微笑みの少女。
──ルーラ。
そんな出逢いから始まったあの一件は、ジョルジョの船に結界の上まで送ってもらい、別れを告げたルーラの涙で幕を閉じた。
去り際に僕の頬へ口づけて、痛いだろうに薄水色の自分の鱗を一枚剥ぎ取った彼女は、それを僕に託し潤んだ瞳でこう言った。
「アメル……これをあなたの宝物にして。持っていてくれたら……いつかきっとまた会えるから」
涙を堪えて笑みを作るルーラに、僕は一つコクンと頷いた。彼女をギュッと抱き締め、白い貝殻のような大ばば様の鱗を返して、同じく微笑んでみせた。
「え……?」
「君の一部を貰った僕に、もうこれは必要ない……必要なのは君だろ? これは大ばば様の唯一の形見。そして君を一人前のシレーネへと導く鍵だよ」
「……うん」
一瞬哀しそうな表情を見せたルーラも、僕の意を察したのか真摯な瞳で見つめ、覚悟を決めたように頷いた。
そんな眼差しにずっと目を合わせていたら、気付かれてしまう──僕の気持ち。
本当の僕は裏腹だった。シレーネであってほしい訳がない、ルーラに。手の届かないところへ行ってしまう、海の統率者シレーネになんて……!
「ありがとう、アメル」
僕は彼女の両肩に置いた手で優しく彼女を引き寄せ、同じように別れのキスをした。少し震えていたのはルーラ? いや、僕だったのかもしれない。
そしてその日から、ルーラのシレーネへの道と僕の船乗りへの道は始まった。
長い航海を終え、時々見せる僕の笑顔に力を与えられていたのか、母さんの病状は徐々に回復し、二年もしない内に退院へとこぎつけた。
結局のところ父さんから預かった懐中時計は、母さんにとっては過去の産物だったらしい。そんな物はなくとも母さんの心の中で父さんは生きていたのだ。今もずっと。
懐中時計を誇らしげに差し出した僕を見つめた母さんは、温かな笑みを浮かべ、それをそっと僕のポケットへ滑り込ませて、
「これは貴方が持っていて、アメル」
と言った。
その時の母さんの本当の気持ちは、今でも未だ分かっていないのかもしれない。
でも心身共に母さんが変わっていったのは、明らかにその時からだった。
病院から療養所に移り、しばらくして退所のメドもついたので、僕はジョルジョの手助けで父さんの家を買い戻した。
その時の母さんの喜びようと言ったらなかった!
きっと年老いたルーラもこんななのかな、と想像をさせるほどの元気ぶりだったっけ。
緑香る風そよぐ丘の上の小さな家。
父さんの建てた家──。
僕は胸ポケットの中で丁寧に一秒一秒を刻む父さんの時計に、上着の上から手を当て、数秒心のリズムを合わせるように目を閉じた。
三ヶ月振りに僕は帰る。
僕の大切な人の待つ父さんの家へ──。
「アメルっ! おかえり、アメル!」
「母さん!」
焦ったようなそれでいて嬉しさの弾む大きな声が前方から近付いてきて、僕はハッと目を開いた。
息を切らし小走りに駆けてくるその姿は、以前とは比べようもないくらいエネルギーに満ち溢れ、向けられた笑顔は色艶も良く幸せに輝いている。
「早かったんだねぇ、アメル。港へ迎えに行くところだったんだよ。あぁ良かった、行き違わなくて。あんまり市場のオレンジが美味しそうだから、貴方のために買っていこうって品定めしていたのでね……あら、何処へ行ったのかしら?」
僕の頬に沢山のキスを贈った母さんは、言い終わらない内に辺りを見回し始めたが、僕は既に背後に近寄る気配を感じ取っていた。
「つかまえ……た! きゃっ」
今度は僕がつかまえたよ。
──僕の大切な人。
「ずるーい、気付いてたの? アメル。……おかえりなさい、アメル」
抱きつく『彼女』をギュッと抱き締めた途端、ルーラとの別れ際そうしたことが思い出された。
あの時も陽に透ける金色の巻き毛が、以前と変わらず甘い香りをさせていたね──。
あの辛い別れの日から、僕は何度となく地中海を、結界の上を行き来したが、ルーラが現れることはなかった。
でも僕は知っていたんだ。ルーラが、そして時々カミル姉さんもが、ジョルジョに会うために船に乗り込んでいたことを。
僕は船長室の掃除を任されていた。時には扉から中央へと続く何かを引き摺ずったような濡れた跡、時には今も思い出している髪の残り香、時にはこの世の物とは思えぬほど美しい金と銀の髪の毛が、僕に気付けとばかりに其処に存在していた。
「……」
そんな時僕は決まって絶句し立ち尽くしてしまう。何も言えず硬直した僕を見つけて、ジョルジョはいつも困った顔で咳払いをし、ハッと我に返った僕は慌てて掃除を再開しては、そそくさと部屋を後にした。
「アメル……あのさ」
そうして月日が経ち、七度目の航海を終え、再びルーラ達の気配を感じ取った僕がガックリと頭を垂れていたその時だった。
「あの……いや……なんだ、誰かさんは君に会わなくとも、どれくらい耐えられるのか試しているんだとさ」
宙を見つめて照れ臭そうにぼそっと呟いたジョルジョは、軽くウィンクをして手を振り部屋を出ていった。おそらくはルーラから口止めされていたのだろう。
──はあああぁ。
僕は大きな溜息ともつかない、深い息を吐いて床に座り込んだ。僕はルーラに嫌われた訳じゃなかったんだ。
懐中時計の中にしまわれた海色のルーラの鱗を取り出す。
光に透かして風車の羽のようにクルクルと回された鱗は、まるで彼女に振り回される僕のようだった。
──くすくすくす。
途端に僕は笑いが止まらなくなった。何て突拍子もないことを考えるんだろう。ルーラらしいや。
──でも……待てよ。
ルーラの行動を良く考えてみる。……このまま耐えられてしまったら──僕のことなど忘れてしまったら、どうなるのだろう?
僕はもう一度ガックリと頭を垂れてしまった。
もちろん理性では判っている。ルーラ自身も会えなくなることを意図する言葉を僕に投げかけていたのだし、それを受け入れて立派なシレーネになってと告げたのは僕なのだから。でも感情ではそんな自分を許すことが出来ずにいた。──ルーラに会いたい。例え言葉を交わすことが出来なくても……触れることすら出来なくても──。
「……ルーラ」
僕の周囲は万事好転していた。船乗りへの道も、母さんの病状も。でも僕の心はぽっかりと穴が開いたように冷たい風が吹き抜けていて、いつも侘しい音を立てていた。ルーラが心のカケラを持ち去ってしまったかのように。
海の上にいさえすれば、いつか何処かで会えるのではないかと、ぼんやりと信じて日々仕事に勤しんできた。いつかシレーネとしてのルーラを見守ることの出来る未来が待っているのではないかと。だけどこんなに近くで彼女を感じていても、背中のリボンひとひらさえも見つけることが出来ずに、時だけがただ過ぎ去っていく。
「……シレーネ」
僕は彼女の瞳の奥を探るように鱗を見つめ、再び懐中時計の裏へ収めた。何もなかったようにひたすら、ただ黙々と片付けを始めた。
でも後ほど僕は気付くことになる。何故あの時真逆の事態を予想しなかったのかと。
──もしも会えないことに耐えられなくなったら?
しかしこの日を境に、ルーラの断片を見つけることは一切なくなってしまった。
そしてこの問いの答えが見出されたのは、更に半年後のことだった──。
ルーラの父さんのお陰で、僕は一人前の船乗りになっていた。
「じゃあな、アメル。私は一旦家に帰るが、近い内顔を出すから宜しく言ってくれ」
「はい」
僕の背中に笑顔とウィンクを投げたジョルジョへ、日に焼けた顔で振り返りながらそう答えた。
小さな荷物を抱え船を降り、港の石段を登る。
活気のある市場の雑踏と喧騒を抜け、ふと熱視線の太陽に引き止められた感じがして背後を見上げた先に、思わず手をかざしたくなるほどの金色の世界が広がっていた。
──眩しい……。
あの時もこんな光溢れる春の陽差しだったっけ。
腐りかけた階段を登りきった時の、あの光景。
太陽色の髪をなびかせて振り向いた微笑みの少女。
──ルーラ。
そんな出逢いから始まったあの一件は、ジョルジョの船に結界の上まで送ってもらい、別れを告げたルーラの涙で幕を閉じた。
去り際に僕の頬へ口づけて、痛いだろうに薄水色の自分の鱗を一枚剥ぎ取った彼女は、それを僕に託し潤んだ瞳でこう言った。
「アメル……これをあなたの宝物にして。持っていてくれたら……いつかきっとまた会えるから」
涙を堪えて笑みを作るルーラに、僕は一つコクンと頷いた。彼女をギュッと抱き締め、白い貝殻のような大ばば様の鱗を返して、同じく微笑んでみせた。
「え……?」
「君の一部を貰った僕に、もうこれは必要ない……必要なのは君だろ? これは大ばば様の唯一の形見。そして君を一人前のシレーネへと導く鍵だよ」
「……うん」
一瞬哀しそうな表情を見せたルーラも、僕の意を察したのか真摯な瞳で見つめ、覚悟を決めたように頷いた。
そんな眼差しにずっと目を合わせていたら、気付かれてしまう──僕の気持ち。
本当の僕は裏腹だった。シレーネであってほしい訳がない、ルーラに。手の届かないところへ行ってしまう、海の統率者シレーネになんて……!
「ありがとう、アメル」
僕は彼女の両肩に置いた手で優しく彼女を引き寄せ、同じように別れのキスをした。少し震えていたのはルーラ? いや、僕だったのかもしれない。
そしてその日から、ルーラのシレーネへの道と僕の船乗りへの道は始まった。
長い航海を終え、時々見せる僕の笑顔に力を与えられていたのか、母さんの病状は徐々に回復し、二年もしない内に退院へとこぎつけた。
結局のところ父さんから預かった懐中時計は、母さんにとっては過去の産物だったらしい。そんな物はなくとも母さんの心の中で父さんは生きていたのだ。今もずっと。
懐中時計を誇らしげに差し出した僕を見つめた母さんは、温かな笑みを浮かべ、それをそっと僕のポケットへ滑り込ませて、
「これは貴方が持っていて、アメル」
と言った。
その時の母さんの本当の気持ちは、今でも未だ分かっていないのかもしれない。
でも心身共に母さんが変わっていったのは、明らかにその時からだった。
病院から療養所に移り、しばらくして退所のメドもついたので、僕はジョルジョの手助けで父さんの家を買い戻した。
その時の母さんの喜びようと言ったらなかった!
きっと年老いたルーラもこんななのかな、と想像をさせるほどの元気ぶりだったっけ。
緑香る風そよぐ丘の上の小さな家。
父さんの建てた家──。
僕は胸ポケットの中で丁寧に一秒一秒を刻む父さんの時計に、上着の上から手を当て、数秒心のリズムを合わせるように目を閉じた。
三ヶ月振りに僕は帰る。
僕の大切な人の待つ父さんの家へ──。
「アメルっ! おかえり、アメル!」
「母さん!」
焦ったようなそれでいて嬉しさの弾む大きな声が前方から近付いてきて、僕はハッと目を開いた。
息を切らし小走りに駆けてくるその姿は、以前とは比べようもないくらいエネルギーに満ち溢れ、向けられた笑顔は色艶も良く幸せに輝いている。
「早かったんだねぇ、アメル。港へ迎えに行くところだったんだよ。あぁ良かった、行き違わなくて。あんまり市場のオレンジが美味しそうだから、貴方のために買っていこうって品定めしていたのでね……あら、何処へ行ったのかしら?」
僕の頬に沢山のキスを贈った母さんは、言い終わらない内に辺りを見回し始めたが、僕は既に背後に近寄る気配を感じ取っていた。
「つかまえ……た! きゃっ」
今度は僕がつかまえたよ。
──僕の大切な人。
「ずるーい、気付いてたの? アメル。……おかえりなさい、アメル」
抱きつく『彼女』をギュッと抱き締めた途端、ルーラとの別れ際そうしたことが思い出された。
あの時も陽に透ける金色の巻き毛が、以前と変わらず甘い香りをさせていたね──。
あの辛い別れの日から、僕は何度となく地中海を、結界の上を行き来したが、ルーラが現れることはなかった。
でも僕は知っていたんだ。ルーラが、そして時々カミル姉さんもが、ジョルジョに会うために船に乗り込んでいたことを。
僕は船長室の掃除を任されていた。時には扉から中央へと続く何かを引き摺ずったような濡れた跡、時には今も思い出している髪の残り香、時にはこの世の物とは思えぬほど美しい金と銀の髪の毛が、僕に気付けとばかりに其処に存在していた。
「……」
そんな時僕は決まって絶句し立ち尽くしてしまう。何も言えず硬直した僕を見つけて、ジョルジョはいつも困った顔で咳払いをし、ハッと我に返った僕は慌てて掃除を再開しては、そそくさと部屋を後にした。
「アメル……あのさ」
そうして月日が経ち、七度目の航海を終え、再びルーラ達の気配を感じ取った僕がガックリと頭を垂れていたその時だった。
「あの……いや……なんだ、誰かさんは君に会わなくとも、どれくらい耐えられるのか試しているんだとさ」
宙を見つめて照れ臭そうにぼそっと呟いたジョルジョは、軽くウィンクをして手を振り部屋を出ていった。おそらくはルーラから口止めされていたのだろう。
──はあああぁ。
僕は大きな溜息ともつかない、深い息を吐いて床に座り込んだ。僕はルーラに嫌われた訳じゃなかったんだ。
懐中時計の中にしまわれた海色のルーラの鱗を取り出す。
光に透かして風車の羽のようにクルクルと回された鱗は、まるで彼女に振り回される僕のようだった。
──くすくすくす。
途端に僕は笑いが止まらなくなった。何て突拍子もないことを考えるんだろう。ルーラらしいや。
──でも……待てよ。
ルーラの行動を良く考えてみる。……このまま耐えられてしまったら──僕のことなど忘れてしまったら、どうなるのだろう?
僕はもう一度ガックリと頭を垂れてしまった。
もちろん理性では判っている。ルーラ自身も会えなくなることを意図する言葉を僕に投げかけていたのだし、それを受け入れて立派なシレーネになってと告げたのは僕なのだから。でも感情ではそんな自分を許すことが出来ずにいた。──ルーラに会いたい。例え言葉を交わすことが出来なくても……触れることすら出来なくても──。
「……ルーラ」
僕の周囲は万事好転していた。船乗りへの道も、母さんの病状も。でも僕の心はぽっかりと穴が開いたように冷たい風が吹き抜けていて、いつも侘しい音を立てていた。ルーラが心のカケラを持ち去ってしまったかのように。
海の上にいさえすれば、いつか何処かで会えるのではないかと、ぼんやりと信じて日々仕事に勤しんできた。いつかシレーネとしてのルーラを見守ることの出来る未来が待っているのではないかと。だけどこんなに近くで彼女を感じていても、背中のリボンひとひらさえも見つけることが出来ずに、時だけがただ過ぎ去っていく。
「……シレーネ」
僕は彼女の瞳の奥を探るように鱗を見つめ、再び懐中時計の裏へ収めた。何もなかったようにひたすら、ただ黙々と片付けを始めた。
でも後ほど僕は気付くことになる。何故あの時真逆の事態を予想しなかったのかと。
──もしも会えないことに耐えられなくなったら?
しかしこの日を境に、ルーラの断片を見つけることは一切なくなってしまった。
そしてこの問いの答えが見出されたのは、更に半年後のことだった──。



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