Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]

 船室の外では、爽やかな夏の夜の風が吹いていた。

 幾人かは目を覚まして寝床に戻ったのだろう、倒れたように寝入っているのはざっと四、五人程度か? 僕は起こさないように足音を殺してコンテナの端に立った。

 ──ルーラ。

 こうして一緒にいられるのもあと二日程度か。いや……この船で働けることになったのだ。また会えるに違いない。会うことさえ出来れば、僕の夢もそう遠いことではない。

 静かにしゃがみ込んでコンテナの枠にもたれると、少し水面が波打って、ルーラの寝顔に水紋を描いた。

 ──君と出逢ったのはまだついこの前のことなのに、随分色々なことがあったね。

 朝までこうして見つめていても許されるならそうしていたかった。けれど明日から仕事が待っている。僕の夢への第一歩だ。

 コンテナの隣にブランケットを広げ、僕は横になろうと腰を屈めて、けれどまたいつものように右腕に触れるルーラの指先を感じた。

「ごめん……起こしちゃった?」

 振り返ると同時に、上半身を起こしたルーラ。

「ううん。アメルが来るのを待ってたのよ」
「え……?」

 ルーラはいつも通りのルーラだった。少なくともラグーンを出て水中を旅してきた今朝までの、不思議な雰囲気は持ち合わせていない。

「結界に戻ったらちゃんと独りで眠るわ。だから、ね?」

 そう言って微笑んだルーラの差し出した左手を断る理由はなく、僕はそれに応じたが、少々複雑な気持ちを持ち合わせているのは否めなかった。

 結界へ戻ったら──ラグーンでもあの赤い扉の向こう側で、彼女は独り眠る習慣を身につけたのだから当たり前のことだ。でも再びこの数日間を僕と過ごして、今はどんな気持ちなのだろう。

 けれど僕はふと気付いた。
 ルーラが添い寝を欲するのは、小さい頃母親を亡くした影響なのかもしれない、と。
 温もりさえ思い出せない彼女の心が、知らず知らずそれを求めているのかもしれない。

「父様と何を話していたの?」

 僕達はラグーンへ向かっていたあの夜のように、進行方向とは逆を向いてコンテナの中に並んでいた。

「ん……明日船長が皆に話すよ。それまでは内緒」

 ジョルジョみたいなおどけたウィンクで、ひとまずごまかしてみせた。一瞬いじけたような表情を返されたが、珍しく追求しようとはせず、ルーラは上空の欠けた月を見上げた。

「あたし……やれるわよね?」

 ──シレーネとしての任務ってこと?

 僕の脳裏には、やはりカミルのあの表情がよぎったが、

「今のルーラなら、きっと大丈夫だよ」

 気付かれぬよう精一杯の笑顔を作ってみせた。

「あたし本当は分かっていたのに、ずっと逃げてきたのかもしれないわ」
「え?」

 ルーラは月に照らされたその白い頬をこちらに向けた。

「あたしが初めて結界を出た時、あなたは船員から嫌がらせを受けていた。外界の海中にも海上にも酷い嵐があって、アメルのお父様もそれで命を失った。人間の世界ではお金という物が必要で、それを得るために他人の物を盗む人もいた……結界の中とは違って沢山哀しいこと・辛くてもどうにもならないことがあるのに、あたしはそれから目を背けて、見なかったことにして、この世界の美しい所・楽しいことばかりを羨んでいた気がするの。だからサファイア・ラグーンで聞かされた真実もすぐには受け入れられなかった──」

 薄く笑んで哀しみを湛えた表情は、いやに大人びて見えた。

「知らなくて済むなら、知らないでほしかったよ」
「え?」

 今度はルーラが驚く番。

「人間の醜い汚い世界なんて……ルーラには知ってほしくなかった。結界から出てこなければ僕はルーラに会えなかった訳だけど、でも人間の酷い有様や人魚への(むご)い仕打ちを知って傷つくルーラを、助けてあげられない僕は本当に不甲斐なくて非力で……」
「でもアメルがいてくれたから、あたしはやってこられたんだわ」
「ルーラ……」
「あたし、嫌なことがあってももう大丈夫よ。だってその後には嬉しいことも沢山あるって分かったから」

 ──強いんだね、ルーラ。

 だからこそ僕は、君の支えになりたいと思ったのかもしれない。
 守りたいと思ったのは、弱いからじゃなかったんだ。強いからこそ、一生懸命だからこそ、僕もまた強くなり、一生懸命になれる──ラグーンで決意した目標は間違いじゃなかった。

 僕は改めてそう感じ、柔らかな面持ちで頷いてみせた。

「さ……そろそろ休もう。もう遅いよ」

 うんと元気の良い返事を一つ、ルーラは早速横になって、僕もそれに続いた。

「アメル、あたしね……」

 ルーラの右手が僕の頬に触れる。またあの夜のように、おやすみのキスでもしてくれるのだろうか?

「あたしね、アメルのこと……」

 ──僕のこと?

 彼女の掌は僕の両目を塞ぐように覆い被さり、すると異様なほどに強制的な睡魔が僕を襲った。

「ル……ラ……?」

 ──アメルのこと、大好きよ──。

 その甘くとろけるような言葉は、単に僕が期待した幻聴だったのだろうか?

 ルーラの温かな指先と木霊する幸せな言葉に包まれて、僕はこれまでにない極上な眠りの中に身を置いていた──。