Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]

 『ルーラをよろしく』

 再び席に着いてテーブルに置いた自分の両拳を眺める。
 守れということか? 栄養不足で骨張ったぎすぎすとしたこの両手で、一体ルーラの何を守れるというのか。

 ──いつも通りに考えるのを少しやめてみるが良い。

 すなわち、いつも通りに考えない。──けれど僕のいつも通りとは、どういう調子なのだろう?

「道が……開ける」

 何の道が開けるというのだろう?
 考えれば考えるほど、益々分からなくなりそうだった。

 とりあえずいい加減休まないと、明日も今日の二の舞なのではないだろうか。僕はだるそうに自分の扉へ振り向いた。けれど其処に見えたのは、半開きになった赤い扉と金色の……ルーラの髪?

「ルーラ!」

 急いで向かったが一足遅かった。扉は再び閉ざされてしまった。まるで僕の道を塞ぐみたいに立ちはだかった扉──道?

「道が……開ける」

 ──僕の道……僕の未来?

 そして大ばば様の『ルーラをよろしく』という言葉。
 意味はともかく、大ばば様は今後も僕がルーラと関わることを禁止していない、いやむしろ希望しているということだ。

 でも……当のルーラは。
 話をするどころか、姿を見ることすら困難だった。

 ──ルーラ、どうしたら君の心を救えるの?

 そして救われない自分も此処にいた。立ち尽くす立ち尽くす……ずっとこうしていたらいつか笑顔のルーラに会えるだろうか?
 笑顔の──僕に微笑みかけたのは、もういつのこと?

 首を垂れた先に、更に痩せ細って棒切れみたいな脚が二本、やっとのことで身体を支えていた。こんな調子では彼女を抱き上げることも出来ない。でももうそんな機会もないか。

 くすくすくす。

 狂ってしまったのだろうか。いきなり笑いが込み上げて止まらなくなった。ルーラをよろしくなんて大ばば様も随分僕を買い被ったものだ。こんな僕にルーラを任せようなんて。

「ルーラを……えっ……あ、まさか……?」

 僕はハッとして、大ばば様とアーラ様の言葉を頭の中に巡らせた。いつも通り『悲観的』な自分であったら思いもつかない道筋。まさか大ばば様は──?

「いや……もしそうだとしても、それは大ばば様の考えだ……」

 ──ルーラの希望じゃない。

 軽く彼女の扉に触れ、背を向けた。行こう、あの砂浜へ。
 周りに振り回される人生では駄目なのだ。自分で望んで自分で決めた人生でなくては──僕のように、今までのシレーネのように、ルーラにはなってほしくない!

 何だろう、この高揚感は。僕は無我夢中で珊瑚礁の中を走っていた。
 違う! 違う!! 全てを投げ出したい気持ちと、どうにか解決したい想いが交錯して、混乱が止まらない。

「い……っつう……」

 いつの間にか海を駆け抜けて、砂に足を取られ激しく倒れた。
 まるで地面が僕を中心に回転しているような酷い眩暈(めまい)を起こす。突然吐き気を催し四つん這いになったが、何も食べていない所為で胃液が少しばかり吐き出されただけであった。

 こんなことでいいのか? アメル。

 自問自答する心も力尽きてしまったように弱々しく響く。こんなことで彼女を守れるのか?

「守る……そうか──」

 ──それも守ることと同じだよ、アメル。

 ルラの石が盗まれた時、船長に言われた言葉を思い出した。
 『守る』ということに形はない。そうだ、自分なりにルーラを守っていけばいい。
 例え彼女が僕を拒絶したとしても、僕なりに彼女を守る方法は幾らでもある筈だ。

 そう思うと急に肩の力が抜け、身体が軽くなったように思われた。
 砂の上に胡坐(あぐら)をかいて座る。長いことそうしていて、ふと海を見上げれば既に二時の方向へ流れていた──もう夜明けだ。

「また眠れなかったな……」

 ぼそっと呟いて鞄の中から革袋を取り出し、口の中を(すす)いだ。食べよう──今日こそ父さんを見つけるんだ。今の僕なら見つけられる。

 もう一つの袋から取り出した中身は、焼く前のパン生地のような──小麦を練った塊みたいな見栄えの悪い物だったが、味は絶品だった。丸二日水以外口に入れていないのだ。喉を詰まらせながらも我を忘れて食べ続けたが、半分もなくならない内に腹は満たされていた。

「はぁぁぁぁ……」

 自然と吐き出される、満足という名の溜息。
 残りの食糧と水を鞄に戻し、僕は砂をはたいて立ち上がった。

 ──父さんを見つける。

 そうすれば、この空っぽな僕の心にほんの少しでも自信がみなぎるかもしれない。

 真正面を見据え、一歩一歩しっかりとした歩みで進むにつれ、次第に気持ちにもピンと一本芯が通るような感覚を得た。
 一時間ほど歩いては小休止し、それを何度繰り返したことだろう。()えてしまいそうな心を奮い立たせながら、やがて魂とは思えない力強い光を遥か遠くに見つけた。

「……父……さん? 父さんっ!」

 走りに走った。これ以上はないと言えるほどのスピードで疾走すると、後に続く魂達は背中に生えた黄金の翼となった。近付くにつれ光は勢いを増し、次第に辺り一面を光の波が覆い尽くしたが、不思議とその中心が僕には手に取るように分かっていた。

「父……さん!?」

 光の根源に辿り着き、その傍らに跪く。それは途端に弱くなったが、代わりに足元の砂が(うごめ)き、徐々に盛り上がって骨や肉を形作り、まるで横たわった人型となった。

 ──!!

 砂は次第に繊細な表面を描き出し、微妙な皮膚の皺・流れる髪の一本一本・唇の潤いさえも紡いで……そして『その人』は僕と同じ色の瞳を見せた──父さん。

「……ア……メル……」
「父さん!!」

 ああ、一度たりとて忘れたことなどない、この深く澄み透る懐かしい声。

「良く、私を見つけてくれたね……アメル」

 『父さん』は横たわったまま顔をこちらに向け、ゆっくりと片手を揚げた。僕の声は声にならなかった。大粒の涙が頬を伝い、父さんの手をしっかり握り締めた両手を濡らす。掌から伝わるその温もりが全身に行き渡り、涙の冷たさなど感じぬほど身体を熱くしていた。

「ずっと待っていたよ……お前が此処へ来る時を。今まで良く頑張ってきたね……お前はもうぼうずなんかじゃない。立派な船乗りの卵だ」

 そう言って『父さん』は昔見た優しい笑顔を浮かべた。

 ぼうず──此処でずっと父さんは、僕を見守ってくれていたの?

「いや……私は天へ昇った。此処にあるのは私のカケラ。でも何処に行っても、私はお前を見守っているよ。そう……母さんのことも」

 『父さん』のもう片方の手が頬の涙を(ぬぐ)おうとしたが、濡れた部分が砂に戻り崩れ、僕はハッとした。

 ──私は其処にいて、そしていない──あの夢。

「おっと……どうやら時が迫っているようだ。此処で形を造るにはもう時が経ち過ぎた」
「え……あっ、ちょっと待って! 父さんっ、僕はどうしたら……」

 ──これから僕はどうしたらいいの?

 すると瞳を閉じ、小さく息を吐いた『父さん』は、

「今まで通り真摯(しんし)に生きていきなさい。自分に自信を持って、自分を信じて……お前は本当は出来る子だ。周りからどんなに馬鹿にされても、どんなに否定されても、自分の決めた道を信じなさい」

 ──決めた道?

「もう……決めたのだろ? その道を進めばいい……時間だ。アメル……ありがとう。私はずっと愛しているよ……。母さんのこと……を……宜しく……な──」
「父さんっ!!」

 その時『あの風』が吹いた。
 生温かい『あの夢』の風。

 『父さん』は末端から砂と化し、さらさらと風にさらわれて、僕とは逆の方向へ流れ始めた。それでもその表情は穏やかな笑みを刻み、瞳は僕を見続けていた。
 皮膚は剥げ、肉は削げ落ち骨と化し……するとあばらの奥、心臓に当たる位置にキラリと光る何かを見つけた。骨の隙間から手を伸ばし、硬い物が指先に触れる──これは……?

「……懐中……時計……?」

 銀色に輝く丸いフォルムは十年前と変わらず精彩を放ち、父さんを困らせるほど僕を(とりこ)にしたことを、つい最近の出来事のように思い起こさせた。

「父さん……」

 ついに骨をかたどっていた砂も落ち、目の前では横に長い微かに膨らんだ砂の山が、ひたすら風に身を任せていた。僕は掌に残された幾ばくかの砂粒と、父さんが大事にしていた懐中時計を握り締めて胸に押し当てた。

 しばらくそうしていたが、やがてそこから一定のリズムを奏でる音を感じた。時計──動いているのか? 表の蓋を開いてみれば、見事なまでに時を刻んでいる。父さんのカケラ──父さんはこの中で今も生きているのだ!

 この時計の特徴は裏側にも蓋が付いていて、紙切れに落書きしてはその中に入れようと時計に手を出し、父さんを呆れさせたものだった。

 最後の航海に父さんは何を挟み込んでいったのだろう?
 少しドキドキしながら裏側へと返す。パチッと音がして、時を感じさせぬほど勢い良く開いた裏蓋、その影には──。

「あっ……!」

 ──桃色の二枚貝──。

 再び湧き上がってきた大量の涙が視界を曇らせて、薄紅色の染みは次第に大きくなり、僕の心にも広がっていった。

 僕の宝物が、父さんにとっても大切な物だったなんて──。

「父さん……ありがとう」

 ずっと待っていてくれたこと・ずっと見守っていてくれること──全てが僕の力になる。そして、決まったよ。僕は全力で守り続ける。母さんを……そして、ルーラを──。