窓から差し込む朝日はまるで本物のように、木で出来た床を淡い光で照らし始めていた。まだ早い内に外へ出る。期待通り二人の姿は見えない。
当たり前のように僕の身体はボロボロだった。食べていない・飲んでいない・寝ていない──力の出ないこの身はいつになく重く、肩に掛けた鞄はまるで鉛のようだ。
砂浜への上り坂もさすがに難儀になってきた。こんな調子で一体この一日をどうやって過ごすというのだろう。もはや結果は分かりきっていた。父さんのカケラなど見つかる筈もない。
けれど僕も向かわずにはおられなかった。ルーラが魔法を習わずにはいられないように。何もせず独り部屋に閉じ籠ることは、今の僕達には拷問にも等しかった。
今日は砂浜に向かって左側の海岸線を歩くことにして、海風に押されながら進んでいった。やがてこの陸地はあの小道から緩やかにカーブを描き、海に比べて窪んでいることが分かった。
何処まで行っても砂浜と海と魂達しか存在しないが、昨日の内に天国へ昇った者・今日になって新たに到着した者が交錯し、僕を追いかける幾つかの魂は昨日とは違うのかもしれない。
「おはよ……君達、僕の父さんを知らないかい?」
ふと足を止めて突然話しかけてきた人間に驚いたのか、魂達は目の前を忙しなく右往左往してみせた。
「ごめんよ……分かってる。自分で見つけなくちゃ意味がないんだ」
そう言って再び進行方向に目を向けたものの、僕の視界にはやはりルーラの恐怖の眼が幾つも飛び交って見えた。
自分に非がないことは確かだ。あの事件は百五十年も前のこと。誰もがあんな悪党な訳ではない……でも。
彼女の中で、人間は人魚を喰らう者・人魚は人間に喰われる者という図式が出来上がってしまったのかもしれない。そしてその代表はきっと僕なのだろう。
理由が何にせよ、過去の人間が手を掛けようとしたのは確かだ。人を愛する・人と交わるという曖昧な言葉も、既に捻じ曲げられて認識されてしまったに違いない。
彼女の誤解を解くには根の深過ぎる現実だった──いや、誤解とも呼べない。また繰り返されないという保証は何処にもない。
この百五十年、唯一結界を出た人魚はルーラとルーラの母さんのみ。ジョルジョ船長を筆頭としたあの船の乗組員と僕以外、人魚を見たことすらないのだ。これから先、結界を出る準備を始めた人魚と、遭遇する人間が好意的とは限らない。人間と交わってきたという事実さえ過去に忘れ去ってしまった人魚が、そんな人間達と接触出来るのか──。
考え始めてしまうと全てが悪い方向へとキリがなかった。
しばらくフラフラと何とか歩いていたが、気持ちの崩落と共に膝を落とす。水──さすがに飲もうか。喉を潤せば心にも新鮮な流れが起きるかもしれない。
僕は鞄の中をごそごそと探り、朦朧としながら小さな革袋を掴んだ。口を留める紐を解き、コルクの栓を外す。口元へ寄せたそこから、水の深く染み透る音がした。
一滴口に含んだだけで、すっかり麻痺して気付きもしなかった喉の渇きが蘇り、いつの間にか夢中で袋の口に吸い付いていた。それでも水は絶えず、頭からぶっかけると砂埃にまみれた僕の頬に幾つもの茶色い筋が滴り、砂の上に丸い跡を作った。
人魚と共存出来る日──いつか来るのだろうか?
こうして昨日と同じように、何の進展もないまま一日を食い潰した僕は、波が九時の方向へ流れ始めた頃、ほとんど本能の力のみで広場へ降り始めた。ルーラと手を繋いでいた時と違い、空気の膜が出来ているにも関わらず、全身を覆っていた砂塵はみるみるうちに海水へと溶け込んでいく。お陰で広場に着く頃には元通りだったが、息も絶え絶えの僕は、影が二つあることに気付かないまま、そのテリトリーを侵してしまっていた。
一瞬時が止まったかと思うほど長く感じられた時間。
足元からゆっくりと見上げた僕の視線は、ちょうど真正面でかち合い、身動きが取れなくなった──そう、ルーラのあの瞳。
「……あ……」
やっとのことで搾り出した声が引き金となり、再び時は刻まれ始めた。逃げる人魚。目の前に現れた流れる泡の波が、彼女の焦燥を表している。
「ルーラ! ちょっと、待っ……」
ルーラを守るように閉じられた赤い扉。そして成す術もなく頭を垂れた僕の前に白い揺らめきが映った──アーラ様。
「座りなさい」
僕は言われるがまま中央に向かい、まるで僕専用となった一脚の椅子にへたり込んだ。
「少し食べる物を食べ、寝られる時に眠らないと身体が保たんぞ……覚えておるか? 我がまだ話すことがあると告げたことを」
「はい」
僕の淀んだ瞳がアーラ様を鮮明に捉えた。──まだ話を理解出来る余地がある──アーラ様はそう判断したのだろう。二の句を続ける意志を示すように大きく息を吸い込んだ。
「実はウイスタより伝言を預かっておっての……」
──大ばば様から?
「ルーラにではなく……僕にですか?」
「そうじゃ」
憂いを帯びたアーラ様の表情は、しかし僕と目が合った途端に柔らかいものへと変わった。
何だというのだろう──今まで話す機会は幾らでもあっただろうに、このもったいぶった状況は。
「『ルーラをよろしく』……とのことじゃった」
「え……?」
それだけでアーラ様の口元は閉じてしまった。
「あの……その一言、だけですか?」
「そうじゃ」
そうして毎度の如くにんまりと笑ってみせた。
『ルーラをよろしく』──何をどう宜しくというのだろう?
「ウイスタがそう告げたその真意は我にも分からぬ……ある程度推測してみたがな。どう捉えるかはそなた次第じゃ──が、いつも通りに考えるのを少しやめてみるが良い。さすれば道が開けるやもしれぬ」
「いつも……通り?」
──そして『道が開ける』?
まるで暗号のように意味の分からない言葉の羅列を反芻してみたが、アーラ様はそれ以上ヒントを与えてはくれなかった。
「おやすみ、アメル」
そう言ったのだと思う。
既に考え込んでしまった僕が顔を上げた時、アーラ様は疾うに自室の手前にいた。立ち上がって途方に暮れた僕に、気付いたのかどうかも定かでない内に姿を消してしまった。
当たり前のように僕の身体はボロボロだった。食べていない・飲んでいない・寝ていない──力の出ないこの身はいつになく重く、肩に掛けた鞄はまるで鉛のようだ。
砂浜への上り坂もさすがに難儀になってきた。こんな調子で一体この一日をどうやって過ごすというのだろう。もはや結果は分かりきっていた。父さんのカケラなど見つかる筈もない。
けれど僕も向かわずにはおられなかった。ルーラが魔法を習わずにはいられないように。何もせず独り部屋に閉じ籠ることは、今の僕達には拷問にも等しかった。
今日は砂浜に向かって左側の海岸線を歩くことにして、海風に押されながら進んでいった。やがてこの陸地はあの小道から緩やかにカーブを描き、海に比べて窪んでいることが分かった。
何処まで行っても砂浜と海と魂達しか存在しないが、昨日の内に天国へ昇った者・今日になって新たに到着した者が交錯し、僕を追いかける幾つかの魂は昨日とは違うのかもしれない。
「おはよ……君達、僕の父さんを知らないかい?」
ふと足を止めて突然話しかけてきた人間に驚いたのか、魂達は目の前を忙しなく右往左往してみせた。
「ごめんよ……分かってる。自分で見つけなくちゃ意味がないんだ」
そう言って再び進行方向に目を向けたものの、僕の視界にはやはりルーラの恐怖の眼が幾つも飛び交って見えた。
自分に非がないことは確かだ。あの事件は百五十年も前のこと。誰もがあんな悪党な訳ではない……でも。
彼女の中で、人間は人魚を喰らう者・人魚は人間に喰われる者という図式が出来上がってしまったのかもしれない。そしてその代表はきっと僕なのだろう。
理由が何にせよ、過去の人間が手を掛けようとしたのは確かだ。人を愛する・人と交わるという曖昧な言葉も、既に捻じ曲げられて認識されてしまったに違いない。
彼女の誤解を解くには根の深過ぎる現実だった──いや、誤解とも呼べない。また繰り返されないという保証は何処にもない。
この百五十年、唯一結界を出た人魚はルーラとルーラの母さんのみ。ジョルジョ船長を筆頭としたあの船の乗組員と僕以外、人魚を見たことすらないのだ。これから先、結界を出る準備を始めた人魚と、遭遇する人間が好意的とは限らない。人間と交わってきたという事実さえ過去に忘れ去ってしまった人魚が、そんな人間達と接触出来るのか──。
考え始めてしまうと全てが悪い方向へとキリがなかった。
しばらくフラフラと何とか歩いていたが、気持ちの崩落と共に膝を落とす。水──さすがに飲もうか。喉を潤せば心にも新鮮な流れが起きるかもしれない。
僕は鞄の中をごそごそと探り、朦朧としながら小さな革袋を掴んだ。口を留める紐を解き、コルクの栓を外す。口元へ寄せたそこから、水の深く染み透る音がした。
一滴口に含んだだけで、すっかり麻痺して気付きもしなかった喉の渇きが蘇り、いつの間にか夢中で袋の口に吸い付いていた。それでも水は絶えず、頭からぶっかけると砂埃にまみれた僕の頬に幾つもの茶色い筋が滴り、砂の上に丸い跡を作った。
人魚と共存出来る日──いつか来るのだろうか?
こうして昨日と同じように、何の進展もないまま一日を食い潰した僕は、波が九時の方向へ流れ始めた頃、ほとんど本能の力のみで広場へ降り始めた。ルーラと手を繋いでいた時と違い、空気の膜が出来ているにも関わらず、全身を覆っていた砂塵はみるみるうちに海水へと溶け込んでいく。お陰で広場に着く頃には元通りだったが、息も絶え絶えの僕は、影が二つあることに気付かないまま、そのテリトリーを侵してしまっていた。
一瞬時が止まったかと思うほど長く感じられた時間。
足元からゆっくりと見上げた僕の視線は、ちょうど真正面でかち合い、身動きが取れなくなった──そう、ルーラのあの瞳。
「……あ……」
やっとのことで搾り出した声が引き金となり、再び時は刻まれ始めた。逃げる人魚。目の前に現れた流れる泡の波が、彼女の焦燥を表している。
「ルーラ! ちょっと、待っ……」
ルーラを守るように閉じられた赤い扉。そして成す術もなく頭を垂れた僕の前に白い揺らめきが映った──アーラ様。
「座りなさい」
僕は言われるがまま中央に向かい、まるで僕専用となった一脚の椅子にへたり込んだ。
「少し食べる物を食べ、寝られる時に眠らないと身体が保たんぞ……覚えておるか? 我がまだ話すことがあると告げたことを」
「はい」
僕の淀んだ瞳がアーラ様を鮮明に捉えた。──まだ話を理解出来る余地がある──アーラ様はそう判断したのだろう。二の句を続ける意志を示すように大きく息を吸い込んだ。
「実はウイスタより伝言を預かっておっての……」
──大ばば様から?
「ルーラにではなく……僕にですか?」
「そうじゃ」
憂いを帯びたアーラ様の表情は、しかし僕と目が合った途端に柔らかいものへと変わった。
何だというのだろう──今まで話す機会は幾らでもあっただろうに、このもったいぶった状況は。
「『ルーラをよろしく』……とのことじゃった」
「え……?」
それだけでアーラ様の口元は閉じてしまった。
「あの……その一言、だけですか?」
「そうじゃ」
そうして毎度の如くにんまりと笑ってみせた。
『ルーラをよろしく』──何をどう宜しくというのだろう?
「ウイスタがそう告げたその真意は我にも分からぬ……ある程度推測してみたがな。どう捉えるかはそなた次第じゃ──が、いつも通りに考えるのを少しやめてみるが良い。さすれば道が開けるやもしれぬ」
「いつも……通り?」
──そして『道が開ける』?
まるで暗号のように意味の分からない言葉の羅列を反芻してみたが、アーラ様はそれ以上ヒントを与えてはくれなかった。
「おやすみ、アメル」
そう言ったのだと思う。
既に考え込んでしまった僕が顔を上げた時、アーラ様は疾うに自室の手前にいた。立ち上がって途方に暮れた僕に、気付いたのかどうかも定かでない内に姿を消してしまった。



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