Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]

 ──眠れない。

 自分の部屋の暗闇の中、僕は半身を起こした。

 ルーラを抱き上げたまま少し散歩をして、それからあの小道を戻った。広場で小一時間ほどお喋りをして別れ、更に数時間……未だ眠れない。
 昼寝などしたからなのか、それとも自分にしては大胆な行動を取ったからなのか、すっかり目が冴えてしまっている。

 ──二人共、寝てるよな。

 僕は持て余した身体を立ち上げて扉の外へ出た。相変わらず明るいままの広場は、音もなく静かに横たわっている。

 ──これからどうなるのだろう……僕も、そしてルーラも。

 それから凝りの残る幾つもの疑問。まだ話すこともあると言っていた。それをアーラ様に問い(ただ)す機会はあるのだろうか。

「しいて言えば、それは今かの」

 ──え?

「あ……アーラ様!?」

 心の声に返答されて、僕は慌てて振り向いた。其処には口元に微笑みを湛えた白いローブの老婆が、今までと同じように佇んでいた。

「何でもお見通し、ということですか?」

 僕は少しだけ不機嫌になって皮肉めいた。心を読まれているのか? そう思える場面が多いからだ。

「いいや。分からぬことも多いぞ。特に未来……先のことはな。我に聞こえてくるのは、伝えたいと念じられた言葉じゃ。心を読んでいる訳ではない。今そなたは我に問いたいと念じた。それに応じたまでじゃ」

 アーラ様は昼間と同じように左側の椅子へ腰かけた。ギョロリと大きくむいた眼が僕を見て、細く笑み潤んだ。僕は気を取り直して、

「まず……あれから考えてみたのですが、一つおかしなことがあるのに気付いたんです。人魚は人間と交わらないと、やがて子孫が魚に戻ってしまうと言われた──結界に閉じ籠るまでは銀髪の人魚以外も人と関わっていたのでしょうが……唯一銀髪の人魚だけが人との混血になっていないんです。つまり銀髪と人との間の子は必ず金髪で生まれてくるのですから、逆を言えば、銀髪で生まれてきた人魚は一度も人間の血が入り込んでいないことを意味する……永遠に独自に生まれ続けているということになります」

 ──独自に産めるのは良くて三代。

 この法則に当てはまらない、矛盾した人魚。

「ほほぅ、良ーく気付いた。そなた、なかなか賢いのぉ。確かに……銀色の髪の人魚には人間の血が混ざっておらぬ。普通なら数代で絶えてしまうじゃろが、そこがこの種の不思議なところよ。これに到っては、本来のシレーネとは銀髪の者達かと思わせる能力かもしれぬ……彼女等は人間と交わることによって、子宮から人の遺伝子を取り込み、保存しておるようなのじゃ。かつて銀色の者達は数人おった。じゃが人間に追われるにつれ、交わらず独自にのみ子を産む者が増えた。結界へ移住した時、既に人間と交わったことのある銀髪の人魚は、テラの祖母ただ一人じゃった。やがて人の遺伝子を得なかった他の者の子孫は独自に子を産めなくなり、普通の人魚達も奇形を産み始めた。それが現状じゃ……カミルもテラの祖母から数えて三代目。テラが人と交わる前に生まれておるのじゃから、既に人の遺伝子も薄いじゃろう。おそらくは人間の力なしではもう子は産めぬ」
「ルーラの姉さんが人と接触しなければ、金髪も銀髪も絶えるということですか?」
「そうじゃ」

 アーラ様はテーブルに両肘をついて、重ねた指の上に顎を乗せた。

 ルーラが幾ら代わってあげたいと思っても、それは無理ということか。しかし──

「金髪の人魚が人の子を産んだら、どうなるのでしょうか?」
「さあて……分からぬ」
「分からぬって……?」

 僕は呆然とした。アーラ様にも分からないことがあるのが意外だった。

「今だかつて生まれてきたことがないからの──金色の髪の人魚と人間の間の子など」
「え……?」

 伏目がちだったアーラ様の視線がこちらを向いた。

 ──シレーネは人と交わらない?

「人とどころか独自にさえ産んだという話も聞いたことがない。地中海全域をテリトリーとしていた時代にも、シレーネは普段海底の宮殿に閉じ籠り、人間と接触することはなかった。既に人の血を半分持ち得たシレーネは、もうその必要がなかったのじゃろう。シレーネとは飽くまでも地中海、そして人魚界を統率する為の中枢。それ以外のことを行なうことははばかられた……いや、もしくはその半分の血が人へと引き寄せ、シレーネが人魚界をまとめられなくなることを怖れた側近達の仕業かもしれぬな」

 そう言って苦笑いを見せたアーラ様の、その眼は笑っていなかった。側近──銀髪の人魚。自分もその内の一人だったからだろうか。

「大ばば様はルーラにシレーネへの即位を依頼した際、結界の外へ行く自由を与えました。そして僕と出逢った。その後にも彼女は頻繁に外へ出ています。ルーラの父さんもルーラが生まれた時に、シレーネの階級を得たら外界へ出てくるものだと聞かされていたようでした。これは今までのシレーネの慣習を変えようとする大ばば様のご意志だったのでしょうか?」
「さあて……金髪の人魚の考えることなど、良う分からぬ」

 アーラ様の更なる苦笑いは、先程のものとは違っていた。妹を懐かしむ姉の表情というのだろうか。眼にも笑みを湛えているように思われた。

「我も此処に来て既に百五十年余。人魚たる理屈と常識からはとうに離れた。ウイスタや、結界に移住しまた結界で生まれた人魚達も、その呪縛から逃れたのかもしれぬな。となれば、ウイスタがそなたの考えるような意志を持っていた可能性は有る」

 その時、僕は気付いた。──根底から全てを(くつがえ)すような見えざる力に。

「シレーネを……人間との間の金髪の人魚と定めたのはネプチューンですか?」
「おそらくは……太古のことじゃから、定かではないが」

 ──やっぱり。

 僕の考えはこうだ。

 シレーネ達が神によって半人半魚に生まれ変わったあの時。人魚達は地中海の秩序を保つ命を受けると共に、金髪の人魚を(おさ)とするよう神に刷り込まれたのではないか。そしてそこには神の打算があったのだ。人魚の理屈を持ちながら人間の無謀さを同時に持つ金髪の人魚。神はもう二度と同じことを繰り返さぬよう人間に近いシレーネに従わせることで、その殻から抜け出す方向へ導こうとしていたのかもしれない。だが予想以上に彼女達の規律を守ろうとする信念は頑なだった。それどころかシレーネに眠る人の血のざわめきを、何百年いや何千年と抑えつけてきたのだろう。けれど世は移り変わり、人間の侵食によって人魚も変化を受け入れねば絶滅への道を辿ることになろうとしていた。その時立ち上がったのが大ばば様だ。だが大ばば様の行動は外へ向けられず、内へ閉じ籠るというものだった。神はシレーネの、人魚界を改革するその反旗に喜び、且つ失望したに違いない。それでも神はその考えを受け入れた。今までにない行動を思いついた人魚の出現を大きな進歩だと感じたのか、結界での退化する日々が再びそういった人魚を生み出すと期待したのか──そして生まれたのがルーラだった。

「うむ……有り得るやもしれん」

 この僕の考えにもちろん確信など持てない。しかしアーラ様は珍しく動揺した様子で、一言一言を噛み締めるように受け止め、納得した。

「じゃが、神が金髪の人魚を選んだ理由は何じゃ? 他にも人間と交わって生まれた人魚は多数おったぞ」
「おそらく半人半鳥を祖として、色濃くその血を受け継いできた者は銀髪の人魚なのではないでしょうか? 金髪はその亜種。もしかしたら銀髪こそが真に頑なな性質を持ち、それに対抗出来るのは金髪なのだと感じたのでは。もしくはその生い立ちの神秘性故か……」
「……ふぅ……む……」

 アーラ様は唸るように低く深い息を吐き、それきり黙ってしまった。

 しばらく長い沈黙が続いた。
 僕は思い切って『あの事』について切り出した。

「あの……アーラ様。大ばば様が結界へ移住を決めた理由は、他にもあるのではないでしょうか?」

 その時まるで電光石火が走り抜けたかの如く、アーラ様の全身が震えた。

 今まで即答でなくとも、小出しにでも質問に答えてきたアーラ様が、事此処に関しては避けている気があることには気付いていたが──。

「アメル……そなた聞けば後悔するぞ」

 くぐもった恐ろしく響く声が、僕を捉えて放さなかった。息苦しい空気が漂う。

「もしも……僕にその資格があるのなら──」

 それでも金縛りから無理矢理解かれるように何とか声を出した。

「……」

 アーラ様の形相はすっかり一変していた。畏怖すら伴う、過去を辿る姿。

「ほんの、時々じゃった……我等が人と接することなど、ほんの僅かなことじゃった。交わり、子を宿せば、その者の記憶を抜き海へ戻るだけ……そうして静かに暮らしてきた我等に危機は訪れた」

 どうにか聞き取れるほどの小さな声で、アーラ様は語り始めた。生唾を呑み込む細く皺の寄った首筋が幾度となく波打ち、其処だけがまるで違う生き物のようだった。

「『その者達』は東より来た。髪の色・肌の色・話す言葉・姿形は地中海周辺の人間とは違っていたが、それは人間だった」

 東洋人ということか?

 アーラ様のローブから覗く小さい爪が震えて、カタカタとテーブルを鳴らした。

「その者達は奇妙な言い伝えを持っていて、奴等は地中海の人間に、その禍々しい知恵を吹き込んだ。ほとんどの者は聞く耳など持たなかったが、一部の悪しき者・強欲な者が跳びつき、『狩り』が始まった──人魚狩り、が」
「えっ……!?」

 僕は一瞬聞き間違いかと耳を疑った。しかしアーラ様の表情は真実を語っていた。血走った眼球は限界まで見開かれ、虚空を見つめ、今在る何物をも映してはいなかった。

「そうじゃ……狩りじゃ……東より来たりし者達は口々にこう言った。『人魚の肉を喰らわば、不老不死の肉体を得られるぞ』と」
「喰らうって……」

 そして僕は愕然とした。

 人間が人魚を食べる? 不老不死!? 確かに人魚は僕達の倍以上生きるが、そんなこと迷信も甚だしい。

「我等は唄を歌い、海の底へ逃げ惑った。唄はもはや唄ではなく、叫びと化していた。雨のように銛が降り、大きな網が海面を舞った。幾つもの命が絶たれ、海を紅く染めた人魚の肉体は、しかし人々の手中に入る頃には泡となり、人間達はその行為の過ちと愚かさに気付いた。やがてこの騒動は終息へと向かったが、シレーネであるウイスタには余りにも大きな衝撃であったのじゃよ……何となれば、犠牲となった人魚の内に我等の母もいて、その命を絶ったのは、記憶を抜かれたとはいえ、ウイスタの父その人じゃったのだから──」
「嘘……」

 僕の涙声は声にならないほど震えていて、やっと出てきた言葉は全てを否定されたいという願望だった。愛し合った人間に殺される──それを見てしまった大ばば様。

 ──その時!

「しまった!」

 背後で何かが倒れる音と、アーラ様の舌打ちを含んだ叫びはほぼ同時だった。全ての視界が絵となって焼きつく。そして最後の絵は──微かに開いた赤い扉の向こうで気絶したルーラ?

「ルーラ!」

 僕は振り返り、彼女を抱き起こした。いつからだろう、話を聞いてしまったのだ。余りのショックに気を失って、けれどややあって意識を取り戻した。ゆっくりと開く瞼、しかし──

「いやあぁぁぁっ、触らないで!!」

 今まで優しく触れてきたその両手が、否応なく僕を撥ねつけていた。

「……ルーラ……」

 僕は二の句が継げなくなった。触れずとも拒み続け振り回される両腕。狩られる──彼女自身も、そう感じてしまったのか。恐怖に怯えた瞳に、もう僕を映す余地など無い。

「よすのじゃ、ルーラ! アメルには関係のないこと……百五十年も昔の、ほんの一部の悪しき人間の仕業じゃ……ルーラ!!」

 制止するアーラ様の説得も、もはやルーラの耳には届かなかった。「人間が……人魚を……人間が……──」うわ言のように繰り返される苦しみ。

「ルーラ、この時代では誰も喰ったりなどせん! 結果誰も喰われておらぬ! ルーラ!!」

 僕から逃れて扉と部屋の狭間でもがくルーラは、アーラ様に抱き締められて、ようやくその動きを止めた。僕は微動だに出来なかった。アーラ様の胸で始まった嗚咽は、僕の頭の中をガンガンと音を立てて巡り、出口を失った鳥のように壁に身を打ち続けていた。

「アメル……アメル!」

 頭上からの呼び声で意識を取り戻した僕は、見上げた視界にアーラ様の切なそうなかぶりを振る仕草を認めた。一旦身を引けと言うのだ。声にならない頷きに、アーラ様はルーラを抱え、彼女を部屋に戻して扉を閉じた。

「人間は……人魚を……食べるの……? ……あたし達が……魚だから……?」
「違う! 違う!!」

 ルーラの泣き続けながらも過細く連なる混乱した問いかけと、アーラ様の必死に否定する金切り声は、ドア一枚隔てた僕の元へも響いてきた。
 泣き声に耳を塞ぎながらも、其処から逃げ出せない自分。

「どうして! どうして!? ……皆が優しかったのは、あたしを食べるため……? 父様も……アメルも……──」
「違うのじゃ……違うのじゃ!! 落ち着きなされ、ルーラ!」

 僕は頭を垂れて、膝を抱え込んだ。

 ──あたしを食べるため……? アメルも──

 違う! 違う!!

 アーラ様の叫びにシンクロして、僕の心の悲鳴が辺りに波紋を描いた。

 今のルーラには何を言っても無駄だ。アーラ様もそう思ったらしく、やがて返答をやめ、ルーラの泣き声だけが響き渡った。

 違うんだ……ルーラ……僕は──

 永遠という物が存在するなら、地球という()れ物は、いつしかその涙を零す日を迎えるだろう──止まることを知らない、ルーラの哀しみという涙を──。