Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]

「ばば様! アーラばば様、これでいいかしら?」

 深い眠りで元気を吸い込んだルーラは、夕刻──海上ではあの夕日が沈む頃起き出して空腹を訴え、アーラ様を急かすように夕食の準備を始めた。とは言えテーブルに積まれた食器を配置したのみで、あとはアーラ様の目配せ一つだ。

「アーラばば様、あたしもこんな魔法が使えるようになるの?」

 一瞬で現れたご馳走に既に手を付けながら、ルーラはそれを想像して瞳を輝かせた。

「いや……これはこの世界ならではの術。外界では無理じゃ。出来たとしても使わぬ方が良いぞ……そなたの食いしん坊ぶりではすぐに他の人魚達のように太りかねん」

 横目で彼女に呆れ顔を見せたアーラ様はくくくと哂い、ルーラは半分恥ずかしそうにふくれっ面をしてみせた。大ばば様とのやり取りもこんなだったに違いない。僕はそんなことを想像しながら、問題を一先ず置き去り、アーラ様と打ち解けることに前向きになったルーラを微笑ましく見つめた。

「地中海をテリトリーとしていた頃には有り得なかった話じゃ……結界の中に危険なことなどない。ああいった者が増えたのは、平和にかまけて怠けた証拠よ」

 アーラ様のその言葉に、さすがのルーラも食事の手を止めた。

「アーラばば様は、結界に入ったことがあるの?」

 まるで見てきたように全てを知る──魔法使いだからなのか? 神の使いだからか? 僕の忘れそうな過去までこの方は知っている。

「いいや。我は此処が出来てから、一度も外へ出ておらぬ。じゃが入ってくる者は多い……お主等を除いたら皆死んでおるがの。我はこのラグーンへの通行料として、記憶の一部を貰い受けるのじゃよ」

 そう言って視線を僕へと向けたアーラ様の表情には、何かしらの含みがあるように思われた。記憶の一部──それは──?

「アーラ様は僕の父の記憶を持っているということですか?」
「……さぁな。そなたから得た記憶かもしれぬぞよ? アメル、そなた父親を探してどうする気じゃ? もし此処で見つかれば死んでいるということになる……それでも見つけたい理由が有るのか?」
「アメル……」

 アーラ様とルーラの、僕の返事を待つ沈黙が胸に沁みた。理由──有りそうで無いもの。母さんのため、自分のため。そう思い込ませて進んできた道。父さんの二の舞になることを怖れ、船乗りになることを反対した母さんに内緒にしてまでやってきたこの五年間は、もちろん他の仕事に比べれば賃金が良いということもあったが、飽くまでも行方不明になった父さんを探すため、そしてそれは母さんを元気にすることに通ずると信じてきたからだ。でもそれが本当の理由なのだろうか? もしも此処で父さんを見つけたら、今後僕は何を糧に生きていくのだろう。

「生きていても死んでいても──父のカケラを見つけることは、母の病状を良くするきっかけになる気がするからです……」

 ──とりあえずは、多分。

 僕のこの説明では説得力に欠ける気がした。一呼吸置いたアーラ様はそれでも、

「ならば明日からあの砂浜を探すと良い。天へ召されても死者は地上に残された愛すべき者達に目印を残していくことが有る……じゃが念を込めねば見つからないぞ。あの砂浜は相当広いからな。二人にはあと六日有る。ルーラはその間に魔法を覚えねばならぬし、そなたもちょうど良いじゃろう」

 そうして食事を終え、僕の心を見透かしたようにゆったりと笑った。

「アメル、お互い頑張ろうね」

 大きな悩みを抱えているのはルーラの方だ。
 なのに明日からの修業へと意欲を燃やして僕をも励ます彼女に、気を取り直して僕はうんと頷いた。

「さて……ルーラの部屋を造るとするかの。そなたのはアメルの物に比べたら簡単じゃのう」

 アーラ様は食卓から立ち上がって、僕の部屋である青い扉の隣に、対になるような赤い扉を出現させた。

「もう入れるの? アーラばば様」

 アーラ様の大きな頷きに、ルーラは嬉しそうに勢い良く扉を開いた。

「あ……」

 当たり前と言えば当たり前なのだが、僕は思わず驚きの声を洩らしていた。
 見えない膜で包まれているかの如く、扉を境に流れ出さず部屋を満たす水。白い砂の中から生えた無数の海藻は、肉厚ながらも淡く緑を透かし、光を遮らず揺らいでいる。

「わっ……この水とても気持ちいい!」

 ルーラは早速跳び込んで、僕の部屋とは真逆なほど広いその空間を堪能した。

「アメル! アメルも来てみて!」

 一回り隅々まで泳ぎきり、彼女はそれを僕と分かち合おうと扉から手を差し出したが、

「アメルは入れぬよ……例えウィズの石の魔法が有ってもな。そなたも一人前のシレーネになろうというなら、独りで眠れるようにならねばなるまい。この部屋はそなた専用じゃ」
「うー、アーラばば様の意地悪!」

 ルーラはその手を引っ込めて再度一泳ぎした後、広場で再びふくれっ面をした。

 けれど僕には、それはアーラ様の優しさのような気がした。本来なら僕は海中どころか、このラグーンすら来られぬ者の筈。シレーネたるルーラともずっといられる訳もない。だからこそ今だけでも──そう想うことは別れを更に辛くする。

「さて……まもなく夜も更けるが、この広場は暗くならない。休むのだったら各々部屋に戻るが良い。部屋の内部は外界同様時間通りじゃからの。明日から日の出と共に行動開始じゃぞ。まぁ……それまでは自由にすることじゃ。ではお休み。ルーラ、アメル」

 アーラ様は言い終わると同時に、掌をテーブルへ向けて魔法で食べ残しを消し、そそくさと広場の奥に現れた白い扉の中へ籠もってしまった。

「ねぇ、アメル。あたし昼寝しちゃった所為で未だ眠くないわ。良かったら一緒に探検しない?」
「探検?」

 返事を待たずに既にルーラは瞳を輝かせ、僕の手を取って広場の外を目指した。

 辺り一面闇の中で寝静まっているみたいだ──けれど目が慣れるに従って、四方を囲むように茂る珊瑚礁の輪郭が次第に見て取れた。砂浜へ続くあの小道。そして──

「うわぁ……綺麗」

 僕達は道の入口で思わず足を止めた。
 幾千幾万という真珠のような薄紅色の粒が、森から湧き上がるようにゆらりと浮かんでいく。

「珊瑚の……産卵だ──」



 そして僕は絶句した。

 生命の終点であるこのサファイア・ラグーンで、これほどの数の命が生まれていくなんて。珊瑚は一斉に卵を舞い上がらせ、散らばらぬ内にと交配に全力を注いでいた。暗闇は瞬く間に消え、受精する卵のエネルギーで光に満ち溢れていた。



「アメル……これがサンゴというの? これ、海藻とは違うの?」

 ルーラは興奮して、産卵を見下ろすように上へ上へと泳いだ。辺りを一回りして僕の元へ戻り、そう質問した。

「海に住むルーラでも、知らないことがあるんだね?」
「これは結界で見たことないもの。この粒々、みんな卵なの?」

 音のない夜の大地に降り積もる雪のように、卵の粒は舞い散りながら僕達を取り巻いた。

「これが此処をラグーンと言わしめる生き物なんだ。水温の高い時期、満月を合図に数日間一斉に産卵するって聞いたことがあるから、昨夜の月も真円に近かったし、きっと二、三日前が満月だったのだと思うよ……まだ春だけど此処の水は温かいんだね」
「まんげつ? しんえん……?」

 月という物を認識したのが、やっと昨夜のことなのだから無理もないだろう。砂浜へ続く小道を上りながら、僕は一つ一つ丁寧に説明をして、納得したルーラも嬉しそうにラグーンを見渡した。

「この珊瑚礁、きっと結界がサファイア・ラグーンであった時は、結界の中に在ったのかもしれないね」
「そっか……今もそうだったら、綺麗で楽しくていいのになぁ」

 確かにほんの少し結界の内部を垣間見ただけだが、ほとんどを岩場の丘が占め、ところどころに海藻の群れが生育しているという状態だった。けれど、

「でも、あたし達、あそこにずっとはいられないのね……」

 その言葉にハッとして振り向いた時、彼女の真剣な眼差しが何を言おうとしているのか、僕には予測出来なかった。

「……ルーラ?」
「アメル……教えて! 恋をするって、愛し合うって、人と交わるってどういうことなの?」
「それは……」

 ──トクン。

 一瞬止まってしまいそうなほど驚いた心臓の鼓動が、一つ大きな音を立てて僕の心の中に反響した。

「それは教えることじゃなくて、感じるものだから──」

 詰め寄る彼女から、僕は視線を逸らした。どんなに僕がルーラを好きでも、それには答え──いや、応えられない。

「感じるって……好きだと思うこと? あたし、アメルのこと、好きよ! ……それともアメルは、あたしのこと嫌いなの?」
「そうじゃないよ──」

 ──大好きだよ。でも僕の想いと、君の気持ちは、きっと違う。

「アメル、お願い! 姉様は『人と交わる』ことを怖れてる……出来ることなら代わってあげたいの! あたし、アメルのこと好きだもの! きっとアメルだったら怖くない!!」

 ──トクン。

 もう一度響いた鼓動。

 僕は、今にも泣きそうな顔で嘆願する彼女の腰に手を回して、その(おとがい)を引き寄せた。

「アメル……?」

 いつになく近付いた顔に驚いたのか、ルーラはその潤んだ瞳を閉じた。硬直した肩から彼女の緊張と恐怖が伝わって、僕の決意は思っていた通り崩れてしまった。

「違う……」
「え?」

 瞳を戻した彼女を優しく放して俯く。

「それは君の役目じゃない……アーラ様だって言ったじゃないか──銀色の髪の人魚が、人間との間に才能のあるシレーネを産むって──」

 背を向けると張り詰めた心が一気に流れ出すように気が抜けた。緊張と恐怖──感じていたのは僕の方かもしれない。もし触れてしまったら。彼女を放せなくなる自分がいるに違いない。

「でも……それって絶対なのかしら?」
「え?」

 冷静さを引き戻そうと努める自分を、ルーラの疑問が落ち着かせた。

「ずっと気になってたの……シレーネは人間との間に生まれた金髪の人魚。それを産めるのは唯一銀髪の人魚。ずっと血筋は変わらずにきたのだろうけど、必ずそうじゃなくちゃいけないのかしら? だって人間に近付くなら、唄の得意なあたしの方がきっと上手くいくし、皆をまとめるには頭の良い姉様の方が適していると思うわ。明日から学ぶ魔法だって……生まれつき身についているならともかく、これから習うのよ。器用な姉様の方が早くて上手に決まっているわ」

 その時、僕は船長の言葉を思い出した。

 ──彼女達は自己の持つ常識以外の物に直面することを酷く畏れる。

 でも、過去の人魚が曲げることなく守り続けてきたことに、疑問を持つ人魚が此処にいる。いや、大ばば様もその一人だったのかもしれない。その必要性に理由があったとは云え、住む場所を結界へと決断した人魚。半分を占める人間の血──その好奇心や探究心がそれを助長するのか?

「あっ……」

 僕は思わず驚きを声に出していた。

 死ぬ間際、大ばば様が発した台詞。

 ──我がルーラにシレーネを任せたのは間違いであったかも……しれんな──

 いや……けれどそこに意見する資格を、僕は持ち合わせていなかった。『これ』は彼女達人魚が気付き、考え、選択しなければいけないことだ。

「アメル、さっきのこと、ごめんなさいね」
「え……何故?」

 ルーラはとりあえず疑問を口に出したことで満足してしまったようだ。しかし自分とのことを謝られてしまった僕は、更に胸を締めつけられるような気分になった。

「だって、アメル怒っていたんでしょう? とても恐い顔をしていたもの。でも……」
「でも?」
「う、ううん、何でもない」

 ルーラはそう言ったきり俯いて、再び砂浜へと進み始めた。いつの間にか彼女の左手は僕の右手をいつになく握り締めていて、そしていつになく火照(ほて)っているような感じがした──。



 ◇ ◇ ◇



「此処も……夜になっても暗くならないんだね」

 砂浜は僕達が漂着した時と変わらず、まばゆいほどに光を放っていて、目が慣れるにつれ、幾つもの金色の魂が飛び交っているのが見て取れた。

「ここをアメルの父様も通っていったのかしら──」

 海を背にして波打ち際から望む世界は、果てしなく続いているようで、これからの六日間を不安にさせた。

「多分ね……僕は船が港に停まる度、其処で働く人達に尋ねて回ったけど、あの嵐で助かった者は見たことがないと言われたよ。何年経っても忘れられないほどの被害だったと、皆口々に言ってた……」

 父さんの船だけでなく、無数の船と人々が呑み込まれていった。嵐が去って風も波も存在しない凪いだ海には、船の残骸と積荷の破片が幾らか残っていたが、ほとんどは世界の果てへ連れ去られてしまったという。

「もし通ったなら──父様のメッセージ、見つかることをあたしも祈るわ。そうしたらアメルの母様も元気になれるのよね?」

 横から見つめるルーラの気遣いに、僕はうんと頷いて薄く笑んだ。──そうだ。そうすれば父さんのことも母さんのことも或る意味解決して、僕は僕として生きる道を探すに違いない。

「あたしの母様も、大ばば様も、ここを通っていったのね──」

 遥か彼方を見渡すルーラの呟きにふと思う。

「ルーラも……探したい?」

 ──母さんと大ばば様のカケラ。

「え? あ、ううん。アーラばば様から、母様と大ばば様の想いは聞けたから。それにあたしはこの砂の上を、アメルみたいに歩けないわ……きゃっ」

 僕はルーラをおもむろに抱き上げた。
 真っ直ぐ歩き出すのに合わせて、足元で休んでいたらしき魂達が舞い上がり、僕達はまるで金色の草原を歩いているような錯覚にとらわれた。

「さっきの珊瑚みたい……これも綺麗ね! ……アメル?」

 僕は歩みを止めた。

「ルーラ」

 ── 一番綺麗なのは、君。──なのに、

 そんな台詞、恥ずかしくてもちろん言えなかった。でも──

「ルーラ、僕を連れてきてくれて、ありがとう──」

 彼女の頬に優しく口づける。
 「うん」と小さく頷いて、柔らかな掌が僕の頬に触れた。

 これが僕の精一杯の感謝と、愛情表現だった──。