Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]



 その日の晩餐(ばんさん)は父さんがいた頃を思い出すほど楽しく、そして美味しいひとときだった。

 とにかくルーラの行動が何とも微笑ましい。全ての料理に恐る恐る手をつけては「美味しい!」を連発する。おのずと誰からともなく笑みが零れ、いつの間にか打ち解けていた。

 船長とルーラの泣き明かした後、カルロが軽食を提供したが、さすがに食事を取る気にはなれなかったのだろう。その後は父親の話を聞くにつれ質問に夢中になり、空腹を忘れていたに違いない。ルーラは本日初めての食事に驚くべき食欲を見せて、皆を圧倒した。

 正直フルボの一件が起因して、船員と僕達の間には遠慮と警戒が伴い、どちらからも近付こうとはしていなかった。それをほぐしてくれたのは、やはりルーラの明るさだったといえよう。

 隣に座った船員がそっと教えてくれたのだが、ジョルジョの料理はお世辞にも美味しいとは言えないらしい。実は日中ほとんどの仕込みを済ませていたカルロのお陰で、これだけ豪華な食事があの短時間で揃ったのだそうだ。

 食後は甲板でルーラのコンテナを囲んで、船長と船員達の宴会が始まった。僕はカルロに従って厨房と食堂の片付けに勤しんでいたため良くは分からなかったが、船員達はルーラの結界の中の話に耳を傾け、反対にルーラは帰りを待つ皆の家族のこと、空を彩る星や月のことを聞いては瞳を輝かせていたらしい。しばらくして男達の歌声が聞こえてきた。酒が入って気持ちが盛り上がったのだろう。しかし僕が船底へ荷物を運び戻った時には、唄はパタッと止んでいて辺りは静まり返っていた。コンテナには呆然としたルーラ。隣には苦笑いをして立ち尽くすジョルジョ。床にはすやすやと眠り込む船員達……どうやらルーラが調子に乗って唄を披露してしまったようだ。

「ごっ、ごめんなさい……あたし、つい……」
「いいんだよ、ルーラ。それだけ君の唄が心に響くということだ。シレーネとしては一人前な証拠さ」

 ジョルジョはルーラの肩に手を置いて、優しくポンポンっと叩いた。様子を見に出てきたカルロと三人で船員達を船室に運んで、宴会はお開きとなった。

「さて……夜も更けたことだし、そろそろ休むとしよう。アメル、私の部屋に寝具が余分にあるから、それでいいかい? ルーラはコンテナでいいのか?」

 そう質問されて僕は頷いてみせたが、ルーラは何故かモジモジとして、何かを言いたそうに落ち着かなくなった。

「ルーラ?」
「えっと……あの……」

 ジョルジョが父親らしく彼女の真正面に立ち、目線に合わせて腰を屈め、

「何も遠慮は要らないんだよ。言いたいことがあるなら言ってみなさい」

 そう諭したが、意外なことにルーラの視線は一度こちらを向いて、

「あの……父様、アメルと寝てもいい?」

 驚いて顔を見合わせたのは、船長と僕本人だった。

「……と、お姫様がおっしゃっておられるが、君はどうかね? アメル君」

 明らかにジョルジョは動揺していて、表情は笑顔を取り繕っているが目は笑っていない。幾ら恋愛を知らない人魚とはいえ、年頃の娘を持つ父親の心境としては仕方ないだろう。問いかけと同時に肩に置かれた手の力の入り様に、僕は(おのの)きを隠せなかった。

「いや……でも、あの……」

 ちょっと滑稽なピリピリと張り詰めた空気が流れる。そこに助け舟を出したのは、傍観していたカルロだった。

「ルーラ様。アメルと一緒が良いのは何故ですか?」
「ん? だって結界の中でも必ず姉様と手を繋いで眠っていたもの……トロールのお家に泊まっても、ヘラルドとお昼寝しても必ず手は繋いでいたわよ。アメルと寝ようと思ったのは、もう数日そうやって眠っているから水の中も慣れているかな、と思って。でも水中はもう嫌かなぁと考えたら言い出しづらくて……父様が嫌でなければ父様でも……でもこの中に父様と一緒では狭いかしら?」

 そのあっけらかんとした説明に、僕達は一瞬固まった。

「そうか、そうか。そういうことか! いやぁ、アメル君、娘を頼むよ。もうあんなこともないだろうが、ルラの石を盗られても困るからね。私は君を信じているよ……では、おやすみルーラ」

 船長は少しでもたじろいた自分を恥じるように、大声で吹き飛ばして娘の頬におやすみのキスをし、豪快な足取りで行ってしまった。

 ──そうか、そうか……そうだったのか……。

 僕もまた違った意味で納得し、やっぱり少しがっかりする。
 ということは、今朝方コンテナで眠った際の安堵した表情も、度々僕の手を握る仕草も、きっと『僕だから』ではないのだろう。彼女にとっては飽くまでも日常の動作なのだ。

「あの……嫌だったらいいのよ。海溝で昼寝をする時みたいに、海草か何かを手に巻きつければ、独りでも眠れる筈だから」

 よっぽど苦々しい表情をしていたに違いない。ルーラにしては珍しく遠慮がちな言葉だったので、僕は少し寂しくなって即座に否定をしていた。

「あのっ、いや違うんだ! えっと、僕もルーラと一緒の方がいいと思うんだ」

 ──ルラの石を盗られないために──

 建前としてそうは言ったものの、正直フルボに続けて盗もうとする者もいないと思っていたし、しばらくは唄の魔法で目覚めないだろう。だけど本音は……

 “私は君を信じているよ”

 ふと船長の台詞を思い出す。
 その言葉は信じているからこそ出てきた訳じゃない。信じていないからこそ口を衝いたんだ。釘を刺すために──もちろん僕は紳士でいるつもりだ。けれど気持ちはジョルジョと同じ──あと幾日ルーラといられるのか分からないならば、一瞬でも多く彼女の傍にいたい。

「では、ルーラ様は君にお任せするよ。私は交代の時間まで操舵室で起きているから、何かあったら呼びなさい。おやすみなさいませ、ルーラ様。おやすみ、アメル」

 話がまとまったことに満足したカルロは、丁寧な挨拶をして戻っていった。

「それじゃ……」

 少々気まずくなった空気の中、ためらいがちに右手を差し出す。にっこりと笑ったルーラはそんなことに気付かぬように、僕の手を取ってコンテナに招き入れた。

「ねぇ、アメル。今朝あんなことが遭ったから、つい父様とアメルの傍にいたけれど、話してみると皆良い人達ね。なのにあのルラの石を盗ろうとした人は、どうしてこれを欲しがったのかしら……?」

 僕達は進行方向を背にして、コンテナの中に腰を降ろし満天の星を見上げていた。

 ──人間には邪悪な心が巣喰っているから。

 そうは言いたくない。ルーラの半分が人間であると分かった今は。

「僕達は働かないと生きていけないんだ……働いてお金という物を手に入れる。でも時々怠け者がいてね、彼もルラの石をお金と交換して、楽に生きようとしたんだよ」

 ポケットからプシケに投げたコインの残りを手の平に広げてみせる。ルーラはその内の一つを手にして、目の前でクルクルと表と裏を見つめ始めた。

「これがあれば生きていけるの?」
「そのコインに見合った何かと交換出来るよ。今夜僕達が食べた食事の材料も、誰かが作ってカルロ達がお金と交換した物なんだ」
「ふーん」

 分かったような分からないような返事をして、ルーラはおもむろに、

「あたしも、これ欲しいわ」

 そう言って瞳をキラキラさせた。

「あ……それで良かったらあげるよ」

 僕は更に、コインの中でも綺麗な物を探し始めたが、

「ダメよ。これはアメルがあの意地悪な船員達に怒られても我慢して働いた分でしょ? それにあたし、自分で働いて手に入れたいの」

 ルーラは夢見るように少し興奮して、そしてそれが無茶なことなのを自覚したように、少し淋し気にコインを返した。

「気にしないで。あたし、父様やアメルと半分だけでも同じだって分かって、ちょっと嬉しいの」

 ルーラの悲しみに気付いた僕の悲しみに、更にルーラが気付いて悲しみが増していく──彼女に負担を与えるだけのこんな堂々巡りはやめなくちゃいけない。もっと僕がしっかりしなくては──。

「ふあぁ~、あたし眠くなっちゃった。横になってもいい? アメルは?」
「いや……僕はもう少しこうしているよ」

 幾千という星が瞬いていた。辺りには船を押す波の音だけ。しばらく自然の声に耳を傾け、頭を整理するとしよう。

「そう……それじゃ、おやすみなさい、アメル」

 ルーラが僕の右肩に空いている方の手を置いた。そして頬に感じる、以前にも遇ったこの温かく柔らかい感触は……

「……へ?……」
「ん? 眠る前の挨拶なんでしょ? さっき父様があたしにやったもの」
「いや……それはそうなんだけど……」
「親しい人だけにするのでしょ? だからカルロはあたし達にしなかったのよね?」

 ルーラの解釈は間違っていなかった。だが、お互いにし合うという認識はなかったようだ。人間的な挨拶を一方的に堪能したルーラは、そそくさと水に潜って眠りに入ってしまった。

 ──親しい人だけに。

 ルーラにとっては、どういった意味なのだろう。

 当たり前の挨拶だというのに、相手がルーラだったというだけで、これほど高揚する自分に戸惑う。落ち着け、アメル!

 水面の向こうに、月明かりに照らされたルーラの寝顔が揺らいでいた。

 ──時は永遠じゃない。それは分かっていても。

「このまま時間が止まってくれたらいいのに……」

 それでも船は西へと向けて進み続けていた──。










◇最後までお読みくださり、本当に有難うございます!

 今まで掲載したイラストはかなり昔の物から数年前の物でございましたが、今回挿入しました「ジョルジョ」は先日友人よりリクエストがあり、何の気なしに描いてみたところ、それ相応にジョルジョっぽい中年男性が描けましたので掲載に至りました(笑)。お気に召しますと良いのですが・・・