
僕達の新たな旅が始まった。
「父様! あれは? あれは?」
甲板にコンテナを移してもらったルーラはご機嫌で、知らない物を見つけてはジョルジョを質問攻めにしている。
僕は少し淋しくなった右手に違和感を覚えながら、カルロの手伝いをしていた。
これが運命というのだろうか。
荷物を運び終わったこの船は帰還の途中で、到着すれば次の大口の仕事まで長期の休みに入ることになっていた。食糧もまだ余裕があるというので、事情を聞いた船員達の好意により、地中海の西の端まで送ってもらえることになったのだ。
「君は随分器用なんだな。悪いけどこれもお願いしていいかい?」
僕はお世話になるお礼に、船乗りの見習いをしていたことを打ち明け、早速帆布の繕いを始めた。
もう五年もやってきたことだ。否が応でも上手くなっていた。でも細かい仕事は嫌いじゃない。何か一つのことに集中して無心になる時、僕は海に浮かぶ船の上で、いつも父さんを感じることが出来た。
「やれやれ……ルーラの質問コーナーにも困ったもんだ。アメル、しばらく交代してくれないか。カルロ、厨房を貸してくれ。今夜は私が作る」
ルーラの勢いは止まらなかった。まるで言葉を覚え始めた幼子のように「これは何? あれは何?」を繰り返す。おそらくはやっと時間を気にせず海上を堪能する余裕が出来たのだろう。僕の船では見つからないように隠れていなければならなかったし、この旅はずっと海中だった。
ジョルジョはその質問攻撃に、夕食の準備を始めるからと断って席を外してきたのだろうか。でも何故船長自ら……?
「せっ船長っ、夕飯なら私が……」
ジョルジョの申し出を慌てて制したのはカルロだった。彼はジョルジョがテラに会う前からの船乗り仲間で、その料理の腕を買われ、この船でも船乗り兼料理長として皆の舌を潤しているのだそうだ。
「いや、カルロは休んでいてくれ。君も今日は疲れただろう。ルーラに父親お手製の料理を振る舞いたいんだよ。西の端なんてすぐ其処だ……サファイア・ラグーンとやらを見つけるまで、何日あるのかも分からないからね。親らしいことがしたいんだよ。さぁさぁ」
そう言って、立ち上がろうとするカルロに再び腰を降ろさせ、
「アメル、お姫様が退屈してるぞ。早く行って相手をしてやってくれ」
と、ウィンク一つ投げかけ、機嫌宜しく行ってしまった。
「此処はもういいよ。私が続きをやろう」
「いえ、話は手を動かしながらでも出来ますから……ルーラの所でやってきます」
手持ち無沙汰になったカルロの申し出を断り立ち上がるや、
「アメルー! アメル、来て!!」
ちょうど“お姫様”からのお呼びが掛かったので、二人顔を見合わせて苦笑し、僕は舳先へと急いで駆け出した。
「どうしたの? ルーラ?」
コンテナの縁にしがみついて、進行方向を真剣に見つめるルーラの横顔も風になびく金髪も美しく染められ、束の間見とれてしまう。
「アメル……空が真っ赤よ! 大丈夫なの!?」
心配そうに振り向いた彼女の頬は、照らされずとも血色の良い紅色をしていた──そう。
「夕日だよ」
僕も西を向いてそう答える。
「ゆうひ?」
「太陽が沈む時こうやって空を赤く染めることがあるんだ。そのうち陽が全て消えると夜が来るんだよ」
「太陽、海に潜っちゃうの!?」
ルーラの仰天な質問に、僕は笑いをこらえ、
「いや……そう見えるだけ。明日の朝には東から昇って見えるよ。その時も空が赤くなるかもしれない」
「へぇー、太陽も夜はお休みするのね」
ルーラは安堵したように落ち着いて、美しい夕焼けの風景を眺め始めた。
夜が来れば、月も星も出る。雨が降れば虹も見えるし、冬になれば雪が降ることもあるかもしれない。そんな時隣にルーラがいたら、どんなに楽しいだろう。ずっと隣にいてくれたら──。
僕はコンテナの傍にしゃがみ込んで、一緒に夕日を見る振りをしながら彼女の姿を目に焼きつけようとしていた。朱色の背景に溶け込む金色の髪、大きな瞳に映り込む太陽。
「母様もこうして同じ風景を見たのかしら」
独り言のように呟いて疑問を口にしたルーラ。僕は「そうだね」と言ったきり、相変わらず横顔に釘付けでいた。
ジョルジョの希望とは真逆で、知り得る限りの母親の全てを、ルーラは父親から聞き出した。どのように出逢ったのか、どのように二人過ごしたのか──その中で、ルーラはどれほど『恋心』という物を理解したのだろう。
「わぁ……太陽が海の中に入っていくみたい……ねぇ、アメル。この船がずっと進んでも、太陽にはぶつからないの?」
ルーラが視線を僕へと向けたので、一瞬反動で顔を背けてしまう。
──いや、大丈夫。もしも顔が赤くても、夕日の所為に出来るのだから。
「難しい話になるけど、僕達の世界もあの太陽も、海よりもこの空よりも広い宇宙っていう空間に浮かんでいて、太陽は近くに感じるけれど、本当はこの世界よりも遥かに大きくて、ずっとずっと遠くにあるんだ。太陽が沈んでいくように見えるのは、僕達の世界が回っているからなんだけど……ごめん、分からないよね?」
「あ……うん……でも、海に沈んで見えるあの太陽が、私達の世界よりもずっと大きいなんて──本当に結界の中って狭い所だったのね」
ルーラはちょっと寂し気な顔をした。
この旅が終われば、戻るべき場所はあの結界の中だ。幾ら外界に出られる許しがあっても、結界という足枷が彼女を縛りつける。
それでも、そんな想いを払拭するようにルーラは笑って、
「アメルって何でも知ってるのね」
と、僕に尊敬の眼差しを向けた。
「僕の知識は父さんの受け売りだよ……人間の子供は『学校』っていう勉強する場所へ行くんだけど、僕はほとんど行けなかった。父さんはルーラの父さんと同じ船乗りだったんだ。小さい頃父さんは皆に内緒で、僕を港に停まった船に乗せて、色んな話をしてくれた」
「そうだったの……アメルの父様も見つかるといいわね……」
ルーラは悲しい顔をして、太陽の沈みきった薄紅の空へと視線を戻した。次第に濃紺の闇が舞い降りて溶け合い、形容し難い色の共演を魅せる。
「僕は父さんの語る旅先の話が大好きだった。見知らぬ街、見知らぬ物……でも僕を一番惹きつけた話は、シレーネの伝説だった」
コンテナの隅に置かれたランプに火を点けて灯りを燈す。僕は照れ隠しするように、その灯りで繕いを始めたが、海風にゆらゆらと揺れる炎でほとんど作業は進まなかった。
「シレーネの?」
ルーラの好奇心の瞳は、再びこちらへと向いた。
「うん。学校のみんなは笑ったけど、僕は絶対人魚はいるって信じていた、十年間ずっと。だから君に会えた時、僕も僕の父さんも嘘つきじゃなかったって嬉しくなったんだ。僕はずっとシレーネに……ルーラに会いたかったから」
上手くいかない手元から目線をそっとルーラへと戻してみる。意外なことに嬉しさ半分、恥ずかしさ半分といった表情で、かち合った瞳を瞬間逸らされた。いや、まさかね……そう言えば、僕が船長からルラの石を受け取る間際、ルーラに発した告白同然の言葉は、彼女に聞こえたのだろうか? そんなことをふと思い出してしまい、こちらも顔に火が点いたように頬が熱くなるのを感じた。
「えっと……いや、あの……」
しどろもどろに弁解の言葉を探してしまったが、
「おーい! 二人共っ、飯の用意が出来たぞーっ」
良いタイミングで船長の上機嫌な呼び声が届き、僕はコンテナから彼女を抱き上げ、食堂と化した船室へと向かった。
「アメル、ありがとう」
ルーラの柔らかい指先が、僕の右手に触れるのを少し懐かしく感じて、笑顔でルーラを見つめる。彼女もまた愛らしい表情で僕に笑いかけてくれた。でも二の句は……
「お腹空いたーっ」
「ルーラ~」
夜の戸帳が降りた甲板に、船室から零れる灯りはとても温かそうで、おどけたルーラの艶やかな頬を照らした。
美味しそうな匂いと共に、船の仲間が僕達を待っていた──。




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