Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]

 昨夜の嵐が嘘のようだ。陽は東の空に昇り、先程まで辺りを覆っていた朝(もや)はすっかり晴れている。甲板の南側に進んで臨んだ海の向こうには、はっきりと陸地が見えていた。だからこそあの船員は石を盗んで逃亡したに違いない。あの港はきっとオスマン帝国属領(後のチュニジア共和国)。あれだけ珍しい石二つ、売ったら一生暮らしていける。

 僕は船長が休ませてくれたあのマットの上にルーラを降ろし、更に目を凝らして望んだ海上に二つの黒い点が確認された。 
 フルボとジョルジョのボート。まもなく追いつくだろう……吸い寄せられるように近付いて、影が重なろうとしている。

 ──アメル。

 その時遥か遠くに、そしてまるで耳元で囁かれたかのように近くに、ルーラの呼ぶ声が聞こえた。

「ルーラ……?」

 マットの上に横たわった彼女には、もはや血の気もなかった。(うつ)ろな瞳は開いているのもやっとで、僕を見上げることも出来ない。白い肌が一層薄れて、明滅するように透け始めていた。

「ルーラ! 待って、もう少しだから!」

 僕は彼女の横に(ひざまず)いて、呼び戻そうと叫んだ。このままでは行ってしまう……大ばば様の元へ、ルーラの母さんの所へ。

 ──ごめんなさい……アメル。あたしはあの石がなかったら生きていけないの。ルラの石──あたしの命の源。

 発せずとも、ルーラの心の声が直接僕の体内に響き渡った。自然と身体が彼女の明滅のリズムに呼応し脈を打つ。

「ダメだ……諦めないで……もう少しだから──ダメだよっ、生きることだけ考えて! ルーラ!!」

 彼女の手を握る。氷のように冷たい手。僕の涙がルーラの頬に落ちた。それすらも彼女にとっては温かいに違いない。

 ──泣かないで……アメル。あたし、アメルのこと、大好きよ。最期に一緒に旅が出来て、楽しかったから……アメル──

 ルーラが瞳を閉じた。──まるで死を待ち受けるかのように。

「ルーラ! ルーラ!! 僕も好きだよ。初めて会った時から……ずっと好きだった! だから、行かないで……行っちゃ駄目だ! 君の母さんを愛した人が、必死に石を取り戻そうとしてるんだっ! 船長は……『父さん』は君の母さんを愛した人なんだよ!! 愛し合って……そして君が生まれたんだ……君を生んでくれた父さんに会わないで、死んだらダメだっ!」

 ルーラの瞳が、ハッと見開かれた。
 意味を理解したのか? とにかく僕の呼びかけに反応したのは確かだ。

 その途端、海へ背を向けた僕の後ろ側が、溢れんばかりの光に照らされた──ルラの石?

「アメル! アメル!!」

 海面から呼ぶ声が聞こえ、慌てて手摺にしがみつく。光で良くは見えないが、一艘のボートにジョルジョとカルロを見つけた。

 光は船長の手元から発せられているみたいだった。今度はルーラを指し示している──不思議な石。

「船長!」
「アメル! 受け取れ!! これに触れればルーラはきっと……!」

 言い終わらぬ内に船長の筋肉質な右腕は孤を描いた。その手から離れた瞬間、いつものように(ほの)かな光に戻ったルラの石。ウィズの石と共にスローモーションで僕の掌へ吸い込まれる(さま)は、まるで真昼の流れ星だった。が、一刻の猶予も無い。僕は石を受け取り、ほとんど倒れるようにルーラへと向けて、石ごと全身を放った。彼女の肌に石が触れる瞬間、再び海上のジョルジョへと光が放たれるまで、僕には生死の判断がつかないほど、彼女は衰弱していた。


 ──ルーラ……生きて!!


 彼女の傍らに不恰好に横たわった僕の掌には、石の硬い感触と、またその下に柔らかな肌と鎖骨のしなやかさが感じられた。ゆっくりと血液の温かさが巡り、鼓動が僕の指先を揺らす。
 ルラの石の光に包まれたルーラは、まるで金色の草原に眠るお姫様のようだった。蒼褪めた頬が徐々に紅みを帯び、彼女は意識を取り戻した。ルーラの手が、僕の伸ばした手を優しく包んでいた。

 ──ありがとう……アメル。

 最後に聞こえたルーラの心の声に、僕は安堵して大きく息を吐いた。

「ルーラ!」

 ボートから戻ったジョルジョとカルロが、不安そうな顔つきで駆け寄るのを視界に含んで、僕は慌てて彼女の胸元から手を退()かし起き上がった。もちろんルラの石は、そのままジョルジョに向かって光を出し続けている。

「大丈夫なのか!? アメル、ルーラは……」

 焦燥しきりのジョルジョが彼女の尾びれの先に腰を降ろして、僕とルーラの顔を交互に覗き込んだ。が、僕の大きく頷いた微笑みに、ほとんど腰を抜かした様子でへたり込み、今にも泣きそうな表情を見せた。

「良かった……本当に、良かった……」

 その声で瞳を開いたルーラに気付いた僕こそ、また違う意味で不安だったに違いない。再び錯乱するのか──それともあれは理解したという証拠なのか。

「アメル……起こして」

 ルーラの過細い声を何とか理解して、僕は彼女の半身を起こしてやり、自分の胸板で支えた。石を通す鎖はフルボに引きちぎられ、取り敢えずジョルジョが結んだのだろう。器用にほどいてルーラのうなじに回し鎖を繋げると、少々短くなったものの以前と変わらぬ様相に戻った。

「ルーラ……」

 涙を一杯に溜めたジョルジョも、心配そうに見つめながら彼女の次の句を待った。僕の手に手を重ねたルーラが、呼吸を整えようとしていることを、その温もりから感じた。

「……とう……さま」

 その言葉に誰もが耳を疑ったに違いない。僕から表情は見えないが、確実にルーラの顔はジョルジョへと向けられている。
 船長の瞳から涙が零れ落ちた。錯覚かもしれないが、ルラの石の光が少し小さくなった気がした。

「父様……あたしを助けてくれて……ありがとう」

 ルーラは僕の元からジョルジョへと手を差し出した。船長の大きな両手が、彼女の小さな右手を包む。と、途端ルラの石がいつも通りに戻った。やっと二人はお互いの姿をまともに見つめることが出来た。

「光が……父様、これは……?」
「この石はね、君が生まれた時テラが──君の母さんが流した涙なんだ。苦しみの末に生まれてきてくれた君への喜びの涙。そしてその涙が石になろうとした瞬間、私の幸せの涙が交わった。……これはテラと私の涙なんだよ。君は私を父親と認めてくれた。この石はもう相手を指し示す必要がなくなったことを知ったんだよ」

 ルーラの左手が幾重にも流れるジョルジョの涙に触れた。涙の石──それも二人の涙が混ざり合っているなんて──

「ずっと……深海で採れた石だと言われてきたのに──これが母様と父様の涙……?」

 不思議そうにルラの石を覗き込むルーラ。そう教えられてきたというのなら、誰がどうして嘘をついてきたのだろう──誰もがなのか?

「君が一歳にならない頃、実は結界の上を一度だけ通ったことがあってね……その時も同じ現象が起きた。でも結界の中にいては会えないからね。私は君が十六歳になって、シレーネとして外界に出てくる日をずっと待ち侘びていたよ」
「船長……」

 何て強い人なんだろう。愛する女性にも、離れ離れになった娘にも、いつ会えるという確証のないまま、それでも信じて待ち続けてきた人。

「そんなことがあっただなんて……だけどどうして姉様(ねえさま)は教えてくれなかったのかしら──大ばば様も」

 姉カミル──ルーラに秘密を隠しつつ、一方外界の知識を与えてきた大ばば様。原因と理由はこのまま旅を続けていれば解けるのだろうか。

「姉……カミルという、君の姉さんのことか?」

 ジョルジョはまるで昨日のことのように、十六年前の記憶を口にした。毎日テラとの想い出を大切にしてきたのだろう。一言一言を一文字残さず忘れないように。

「父様は、姉様も知っているの?」
「いや、テラから聞いただけだよ。テラと同じ銀色の髪で、とても聡明な娘だと言っていた」
「そうなの! 姉様は頭も良くて、いつでも冷静に行動出来て、美しい銀髪はあたしの巻き毛と違ってとても滑らかで……」
「ルーラのクセっ毛は、きっと私譲りだな」

 そう言って船長は、クシャクシャっと自分の髪を掻いて笑った。

 ルーラの体調も随分回復してきたようだ。少しずつ二人の距離が縮まっていく。しかしルーラは一瞬の内に表情を曇らせて、僕を一瞥(いちべつ)し、

「あの……ごめんなさい、父様。あたし、本当は未だ良く分かっていないの……あたしが父様と母様が出逢って生まれたということ、どうやって生まれてきたのか、姉様が生まれた時とどう違うのか。アメルは父様と母様が『愛し合って生まれた』って言ったけれど、『愛し合う』ってお互いを好きになるってことでしょ? それはあたしが姉様や母様やアメルを好きなこととは違うの?」

 申し訳なさそうな口調は、ジョルジョに複雑な表情をさせた。

「そうか……いや、突然のことだ、仕方ないさ。君の世界には女性しかいないのだし……君が姉さんや母さんを想う気持ちとはまた別の感情だよ。アメルに対しては──さて、私には分からないが……」

 そう言って僕に向けられた視線に、心の奥底を見透かされた気がして思わず硬直した。

 ルーラの僕への気持ち──いや、まさかそんな訳がない。『恋』を知らない彼女に『恋』が出来る筈もない。

「少しずつ知っていけばいいよ。君はまだ若い……アメルもね。私はもうあれから十六年も歳をとってしまった。だが人魚の寿命は長い。テラは変わらぬ姿で結界にいるんだろう。ルーラ、テラのことを少し話してくれないか?」

 ジョルジョは再び頬を赤らめた。
 あぁ、この時が来てしまった! ルーラがゆっくりと僕を振り返る。その瞳は戸惑いを表していた。僕は意を決して彼女の耳元に呟いた。

「ルーラ……父さんの(もと)へ行って、本当のことを話した方がいい……辛いと思うけど、それが父さんのためなんだ」

 彼女は緊張した面持ちで一つコクンと頷き、ジョルジョへと振り向いた。

「父様……」

 ルーラが彼に両手を伸ばす。彼女は僕の腕の中から父親の胸元へと飛び込み、ジョルジョの太くがっしりとした腕が彼女を包み込んだ。

「ルーラ?」

 自分の許へ来てくれた喜びと、彼女の震える声から不安を読み取って、ジョルジョの表情に明暗が入り混じった。テラ──ルーラの母さんは──

「父様……母様は、あたしが一歳の時、病気になったの。二歳になるちょっと前に、病気で……病気で……」
「……え……? ……あ……そんな……!」

 愕然として動けなくなった父親を、ルーラは抱き締め一緒に泣いた。

 居たたまれなくなった僕はそっと立ち上がり、ジョルジョの少し後ろで見守るように立ち尽くしているカルロと目が合った。ジョルジョとは長い付き合いなのだろうか。まるで自分のことのように唇を噛んで嗚咽(おえつ)すら耐えている。

 僕達はどちらともなく目を伏せて、その場を後にした。
 視界にはジョルジョと同行した船員達が、フルボを港の警察に引き渡し戻ってくる(さま)が映し出された。

 既に太陽は目線まで昇り、水面に反射して、それはまるでルラの石の光にも似ていた──。