コン、コンとオリヴィアが最初の扉を控えめに叩くと、すぐに野獣のうなりのようなくぐもった声が聞こえてきた。
 オリヴィアは驚きに背筋を伸ばし、逃げるように扉から一歩下がった。

 しかし、

「くそ、だれだ! だれも邪魔するなと言っただろう!」

 という荒っぽい男の怒鳴り声がすぐに続いて、オリヴィアは逃げ去ることができずに立ち往生した。
 男の声は怒りと苛立ちに満ちていて、まるでオリヴィアが彼のお気に入りのクリスタルの収集品を片っ端から割ってしまったかのような勢いだった。

 どうして、ただ扉をノックしただけなのに!

「あの、邪魔をしてしまったなら申し訳ありません。ただわたしは、うちの執事を捜しているのですけど、もしここに……」
「このアマめ、逃げるな!」

 怒声とともに、ぴたりと閉まっていた扉が突然勢いよく開いて、中から小さな人影が飛び出してきた。
 扉の前に立っていたオリヴィアに肩が当たって、その人物は一瞬だけオリヴィアを見上げた。

 くりくりとした茶色の瞳の、まだうら若いメイドだった。
 しかし、そのメイド服は無惨に乱れ、瞳には大粒の涙が溜まっている。

「ま、まあ、大丈夫ですか? どうして……」

 と、オリヴィアが尋ねきらないうちに、メイドはきゅっと苦しそうに唇を結んで、そのまま廊下を走り去っていった。屋敷をよく知る者の動きだった。
 階段を素早く降りきり、すぐにどこかへ消えていく。

 オリヴィアが呆然として立っていたのもつかの間、すかさず扉の内側から別の人物が顔を見せた。
 まだそれほど年配ではないのに、すっかり贅肉のついた顔と身体をした、乱れた姿の大柄の紳士だった。

 こういう人物を紳士と呼んでいいのなら、の話だが。

「おや」
 紳士の皮をかぶったこのろくでなしは、オリヴィアの姿を認めるなり、すぐに怒りを和らげたようだった。

「小さい獲物に逃げられたと思ったら、代わりにずいぶん上等な品が届けられたようで……」

 オリヴィアは、自分が世事にうといことを理解している。

 とはいえ、明日も知れぬ立場であるとはいえ人妻であるし、何も知らない赤ん坊でもない。
 脂ぎった顔をしたこの男が、閉ざされた扉の向こうで何をしようとしていたのか、オリヴィアを見て何を思いついたのか、きちんと分かっている。

 なんという恥知らず!
 そして、なんという皮肉だろう。

 オリヴィアが愛する夫は、結婚してから今までのひと月以上を、彼女がどんなに頑張って魅惑しようとしても無視を決め込んだというのに。
 こんなどうでもいい男の気を引くのには二秒とかからないなんて。