「あ、ありがとうございました…。」
遠慮気味の彼女の声でハッと我に帰る。
「ああ、もう病院か。後は俺より詳しいよな…。じゃあ、これで。」
何気なく挨拶を交わすし、その手を離して自分自身の在るべき場所へと足早に向かう。
それなのに…心は彼女の元に置き去りのまま。離れた側からもう既に会いたい気持ちが溢れ出す。
歩きながら、そっと自身の手を見つめては、握った華奢な手を思い出してしまう始末だ。
何故俺は彼女ばかりにこんな執着してしまうのか、自分自身に問いかけても明確な答えは出る訳もなく。
ただ漠然と、あの頃抱いていた淡い恋心のような家族のような…そんな気持ちが未だ抜けきれていないだけだろうと、無理矢理思考を他へと追い出す。
「先生、やっと来られましたか!
担当患者様数人がどうしても先生が良いと待ってらっしゃいます。」
俺を目ざとく見つけた看護師によって、診察室に押し込まれる。
流されるように白衣に着替え、淡々と言われるままに担当患者を診察する。そんなこんなで慌ただしい日常が始まる。
それでも次の患者を呼ぶ束の間、彼女はどうしているだろうと思いを馳せる。
朝のラッシュアワーで痴漢に遭い、心挫けてはいないだろうか…。今になって怖さが甦りはしていないだろうか…。
心理学をもっとちゃんと学んでおくべきだったと頭の片隅で後悔する。
強がりで負けず嫌いな彼女だけれど、本当は弱くて泣き虫な一面も兼ね備えている。どこかで独り泣いているのではないかと思うと心が痛む。
昼が過ぎて、外来患者が全て終わりフーッと深く息を吐く。
「1時間休憩に入ります。何かあったら連絡下さい。」
やっと解放されて遅い昼食を食べに社員食堂へと向かう。
もしかしたら彼女に会えるかもしれない。そう思うと勝手に足が速くなる始末だ。
松原千紗。
彼女の名前を思い浮かべればいつも浮かんでくるのはあの浜辺での満面の笑顔。夕焼けに溶け込んで屈託なく笑う笑顔が、今でも鮮明に思い出される。
今の千紗はあの頃よりも随分と落ち着いた大人の女性になっていた。あまり表情を変えないから心を読む事もままならない。
あの頃は…手に取るように表情で気持ちが読めたのにな…。
お昼を過ぎた食堂は閑散としていた。
遅出の看護師や医者がちらほら遅いランチを取ってはいるが、食堂内をぐるりと見渡すが彼女の姿はそこには無かった。
ザワザワと波立っていた心がスーッと凪になる。
簡単に食べられるサンドイッチとアイスコーヒーだけを買い、所定の位置になりつつある窓際のカウンター席の角に向かう。
「如月先生、お疲れ様です。良かったらご一緒しませんか?」
不意に声をかけられて足を止めて振り返る。
何度か見かけた事のある看護師が、ニコニコと愛想を振りまき近付いて来るが、名前は…何だったか思い出せない。
「悪いけど、仕事しながらだから。」
俺は顔色も変えずに淡々とそう答え、目指す席へと足を進める。
これが俺の通常運転だ。
誰かれ構わず愛想を振っていては身が持たない。時間を無駄にしている事に気付き、それ以来、必要以上に他人にいい顔はするのはやめた。
タブレットを開きながら、片手でサンドイッチを頬張る。
午前にやり切れなかった事務仕事をこなしながらの昼食は味気なく、ただ義務的な物に過ぎなかった。
「…如月先生…お疲れ様です。あの、お忙しいところ失礼します。」
遠慮気味な声を背中に聞きハッとして手を止める。窓ガラス越しに後ろを見れば、今一番会いと思っていた千紗がいた。
若干の驚きを隠し切れず振り返る。
彼女が病院で話しかけてくるのは初めてだ。否応にもザワザワと小波に心が揺れる。
「お疲れ様。…仕事大丈夫でしたか?」
急な声かけについ、畏まって敬語になってしまう。
「はい…今朝はいろいろありがとうございました。これ、お礼と言っては何ですが…お昼の足しにして頂けたらと思って…」
彼女の手元に目を落とすと、ぱんぱんに膨らんだ茶色の紙袋を差し出してくる。
「えっ…ありがとう。別に気にしなくて良かったのに…。」
彼女の気持ちを無碍にも出来ず、おもむろに紙袋を受け取り中を覗く。
中には焼きたてのメロンパンが5、6個ほど詰め込まれていた。
これは今病院内で話題の移動パン屋ではないか?
昼食時だけやってきていつも列をなし、並ばなければ買えない。すぐに売り切れになってしまうという…
車内に釜を入れていて、焼きたて熱々でカリカリふわふわで…と看護師達が興奮気味で話していたのを小耳に挟んでいた。
「これ、なかなか買えないんじゃないか?」
実は無類の甘党な俺の嗅覚をくすぐる甘い香りが、我慢し切れず紙袋の中に手が伸びる。
「君は食べたのか?こんなに沢山、1人じゃ食べられないから、一緒に食べないか?」
少しでも長く側にいられたらと、燻っていた下心が目を出して何気なさを装って誘ってしまう。
「あっ…いえ、同僚を待たしているので、医局の先生方にでも配って頂けたらと…。」
俺が今朝一緒に遅刻した事で、迷惑を被ったであろう同僚達にも配慮してくれたらしい彼女の気持ちに感動を覚える。
「だけど、行列に並んで昼食食べれてないんじゃないか?」
俺は俺で彼女の事が気に掛かり仕方がない。
遠慮気味の彼女の声でハッと我に帰る。
「ああ、もう病院か。後は俺より詳しいよな…。じゃあ、これで。」
何気なく挨拶を交わすし、その手を離して自分自身の在るべき場所へと足早に向かう。
それなのに…心は彼女の元に置き去りのまま。離れた側からもう既に会いたい気持ちが溢れ出す。
歩きながら、そっと自身の手を見つめては、握った華奢な手を思い出してしまう始末だ。
何故俺は彼女ばかりにこんな執着してしまうのか、自分自身に問いかけても明確な答えは出る訳もなく。
ただ漠然と、あの頃抱いていた淡い恋心のような家族のような…そんな気持ちが未だ抜けきれていないだけだろうと、無理矢理思考を他へと追い出す。
「先生、やっと来られましたか!
担当患者様数人がどうしても先生が良いと待ってらっしゃいます。」
俺を目ざとく見つけた看護師によって、診察室に押し込まれる。
流されるように白衣に着替え、淡々と言われるままに担当患者を診察する。そんなこんなで慌ただしい日常が始まる。
それでも次の患者を呼ぶ束の間、彼女はどうしているだろうと思いを馳せる。
朝のラッシュアワーで痴漢に遭い、心挫けてはいないだろうか…。今になって怖さが甦りはしていないだろうか…。
心理学をもっとちゃんと学んでおくべきだったと頭の片隅で後悔する。
強がりで負けず嫌いな彼女だけれど、本当は弱くて泣き虫な一面も兼ね備えている。どこかで独り泣いているのではないかと思うと心が痛む。
昼が過ぎて、外来患者が全て終わりフーッと深く息を吐く。
「1時間休憩に入ります。何かあったら連絡下さい。」
やっと解放されて遅い昼食を食べに社員食堂へと向かう。
もしかしたら彼女に会えるかもしれない。そう思うと勝手に足が速くなる始末だ。
松原千紗。
彼女の名前を思い浮かべればいつも浮かんでくるのはあの浜辺での満面の笑顔。夕焼けに溶け込んで屈託なく笑う笑顔が、今でも鮮明に思い出される。
今の千紗はあの頃よりも随分と落ち着いた大人の女性になっていた。あまり表情を変えないから心を読む事もままならない。
あの頃は…手に取るように表情で気持ちが読めたのにな…。
お昼を過ぎた食堂は閑散としていた。
遅出の看護師や医者がちらほら遅いランチを取ってはいるが、食堂内をぐるりと見渡すが彼女の姿はそこには無かった。
ザワザワと波立っていた心がスーッと凪になる。
簡単に食べられるサンドイッチとアイスコーヒーだけを買い、所定の位置になりつつある窓際のカウンター席の角に向かう。
「如月先生、お疲れ様です。良かったらご一緒しませんか?」
不意に声をかけられて足を止めて振り返る。
何度か見かけた事のある看護師が、ニコニコと愛想を振りまき近付いて来るが、名前は…何だったか思い出せない。
「悪いけど、仕事しながらだから。」
俺は顔色も変えずに淡々とそう答え、目指す席へと足を進める。
これが俺の通常運転だ。
誰かれ構わず愛想を振っていては身が持たない。時間を無駄にしている事に気付き、それ以来、必要以上に他人にいい顔はするのはやめた。
タブレットを開きながら、片手でサンドイッチを頬張る。
午前にやり切れなかった事務仕事をこなしながらの昼食は味気なく、ただ義務的な物に過ぎなかった。
「…如月先生…お疲れ様です。あの、お忙しいところ失礼します。」
遠慮気味な声を背中に聞きハッとして手を止める。窓ガラス越しに後ろを見れば、今一番会いと思っていた千紗がいた。
若干の驚きを隠し切れず振り返る。
彼女が病院で話しかけてくるのは初めてだ。否応にもザワザワと小波に心が揺れる。
「お疲れ様。…仕事大丈夫でしたか?」
急な声かけについ、畏まって敬語になってしまう。
「はい…今朝はいろいろありがとうございました。これ、お礼と言っては何ですが…お昼の足しにして頂けたらと思って…」
彼女の手元に目を落とすと、ぱんぱんに膨らんだ茶色の紙袋を差し出してくる。
「えっ…ありがとう。別に気にしなくて良かったのに…。」
彼女の気持ちを無碍にも出来ず、おもむろに紙袋を受け取り中を覗く。
中には焼きたてのメロンパンが5、6個ほど詰め込まれていた。
これは今病院内で話題の移動パン屋ではないか?
昼食時だけやってきていつも列をなし、並ばなければ買えない。すぐに売り切れになってしまうという…
車内に釜を入れていて、焼きたて熱々でカリカリふわふわで…と看護師達が興奮気味で話していたのを小耳に挟んでいた。
「これ、なかなか買えないんじゃないか?」
実は無類の甘党な俺の嗅覚をくすぐる甘い香りが、我慢し切れず紙袋の中に手が伸びる。
「君は食べたのか?こんなに沢山、1人じゃ食べられないから、一緒に食べないか?」
少しでも長く側にいられたらと、燻っていた下心が目を出して何気なさを装って誘ってしまう。
「あっ…いえ、同僚を待たしているので、医局の先生方にでも配って頂けたらと…。」
俺が今朝一緒に遅刻した事で、迷惑を被ったであろう同僚達にも配慮してくれたらしい彼女の気持ちに感動を覚える。
「だけど、行列に並んで昼食食べれてないんじゃないか?」
俺は俺で彼女の事が気に掛かり仕方がない。



