君の瞳にこの愛を捧ぐ〜凄腕眼科医の執着愛〜

永井は次の患者の部屋に向かう間、如月の背中を見つめて聞きたい気持ちを押し殺していた。

「…あのこんな事、聞いていいのか迷いますが…」
ついに我慢が出来ず、衝動的に先を歩く如月の背に呼びかける。

「如月先生と松原千紗さんのご関係は?」
恐る恐る声をひそめて聞く永井とは対照的に、
「彼女は俺にとって1番大事な人です。」
いつもの淡々とした、しかしはっきりと揺るがない声で彼はそう答えた。

その言葉に永井は大きな衝撃を受ける。
「そ…そうなんですね…」
その瞬間、片思いが失恋に変わった事を知った。
 
その後の如月は医師としての仕事を黙々とこなし、提出書類の作成に日報などの事務処理、当直の医者に引き継ぎまで手を止める事なくやり切って定時で仕事を終えた。

「お先に失礼します。」
と、白衣を脱ぎ医局を出る。

その後は脇目も振らず足速に、千砂のいる特別室へとひた急ぐ。

如月医師の仮面を外した涼は人知れず焦っていた。
先程の回診の時は時間がなさ過ぎて、大切な話しが中途半端に終わってしまった。だけど、ずっと伝えたかった言葉はなんとか伝える事が出来た。

が…千紗からの返事はまだもらっていない。

あれから不安と少しの期待が入り混じり、どうしようもなく千紗に会いたかった。医者ではなくただ1人の男として…

こんなにも心臓が高鳴る事があるのかと、自分自身に驚くほど、自分の身体が自分のものでは無いと思うくらい心が乱れ浮ついていた。

もし、これで彼女から別れを告げられたら…恐怖で指先が震え痺れを覚えるほどだ。

しっかりしろ!と、自分で自分を奮い立たせ、千紗のいる特別室のドアをノックする。

「…はい。」
と小さな返事が聞こえ、涼はただの男に戻ってドアノブに手をかけそっと開く。

「…さっきはごめん。急な事で混乱させてしまったんじゃないかと…大丈夫か?」
ソファに座っていた千紗に近付きながら、懸命に、でもどこか焦りながら取り繕うための言葉を並べる。

「…涼さんは…なぜ藤堂先生では無いんですか?」
千紗が立ち上がり自ら近づいて来る。
彼女にとってずっと引っかかっていたのはその事で、彼の謝罪よりも何よりもその事が1番気掛かりだった。

あの頃、涼が日本を離れた後に知った彼の家の事。
実は大きな病院の跡取り息子で、決められた婚約者がいる事。自分とは全くかけ離れた世界に生きているんだと衝撃的に聞かされて、ガラガラと目の前が崩れ去る音を聞いたあの時…。

お互いが手の届く距離で足が止まり向き合うかたちになる。

「先生…ご結婚は?」
突然、千紗からの先生呼びに、涼は衝撃を受けて一瞬固まる。

「結婚…⁉︎どういう事だ?
俺はずっと独身だし、苗字が変わったのは親が離婚したからにすぎない。いつだって俺の心の中には千紗がいて、他の誰かを考えるなんて余裕もなかった。なぜそんな事を聞く?」
後ろめたい過去なんて一切ないから、如月自身は困惑しかない。

「…先生が渡米してからしばらくして、私に1人の女性が尋ねて来ました。その方は藤堂涼さんの婚約者だと言っていました。涼さんが帰国したら結婚するんだと…。
如月先生が藤堂涼さんなら…結婚したのかと…」
そう言う千紗の手を取り涼は言葉を遮る。

「確かに、親が決めた婚約者がいたのは事実だ。だけど一度も会った事がなければ、興味もなかった。あの頃の俺は千紗が全てだったから…。
親が離婚して藤堂の姓を捨ててから、家を継ぐ事も婚約者も全て白紙になった。初めて自由を手に入れたと思った。
本当はすぐに君に会いたかった。
…彼氏が出来たと別れを告げられた後だって、君に会いに行こうと何度思ったかしれない。」

あっ…私も涼さんに大きな嘘をついたんだった…彼に何か言える立場では無い。千紗も自分のしでかした過ちに唇を噛む。

「あれは…嘘でした。ごめんなさい。」
千紗は千紗で罪悪感と後悔をずっと抱えていた。あの頃、好きなのに…婚約者と名乗る人に衝撃を受け、離れなければならない事実に打ちのめされた。

いつか別れを告げられるのなら、こちらから離れた方が少しはマシだろと、そう浅はかな考えだったのだけれど…。

突然、涼が握っていた千紗の手を引っ張るから、体勢を崩した千紗は気付けば如月の懐に飛び込んでしまっていた。
ぎゅっと抱きしめられて、その温もりに涙が出そうになる。

「そうだったのか…まぁ…今となってはお互い様だ。
別れを告げられたあの日からずっと、俺は君に対して後悔ばかりが積もり積もった。
あの日、ちゃんと気持ちを伝えていれば…待っていて欲しいと言えていたら、違っていたかもしれないと…許せなかったのは俺自身だ。」
涼は洗いざらいあの頃の気持ちを曝け出し、やっと過去の自分が報われた気がした。

少しの間の後、千紗もぎゅっと自分の手を握りしめながら話し始める。

「私も…本当は、好きだって言いたかった…涼さんが如月先生でも、藤堂涼さんでもどっちだって構わない。涼さんが、好きです。」
俯きがちにそう言って、恐る恐る涼の顔を見上げる。

2人目が合って、しばらく時が止まったかのように見つめ合う。

はっきりと千紗の口からそう告げられて、涼はこの現実に胸が熱くなった。
華奢な千紗の小さな身体を壊さぬように、そっと抱き締め直す。その温もりを確かめながらフーッと安堵のため息を吐いた。

「良かった…本当に…騙すような形になってごめん。許してもらえるだろうか?」
千紗はまだ、この現実を上手く処理出来ず、戸惑ってしまうけれど…涼の少し早い鼓動を耳元で感じながら、自分自身の鼓動も共鳴するように高鳴っている事に気付く。

「気付かなかった私も悪いので…。」

そのタイミングでパッと涼の胸から引き離され、天を仰がされた。
頭ひとつ分高い背の差がはっきりと分かるくらい見上げる形になる。

涼が千紗に満面の笑顔を向けている。
普段感情が見えない如月だから、この人もこんな風に笑うんだ…と、千紗は信じられない気持ちでつい、その顔を見つめてしまっていた。