「おはよう、椿」
「お、おはよう嗣翠。今日はお仕事?」
「そう」
「そっか。頑張ってね、いってらっしゃい」
「・・・・・・」
翌日。
早速蕩けるような笑顔で挨拶してきた嗣翠に何とか返すと、嗣翠は急に黙り込んだ。
何だ。何なんだ。
昨日の今日で覚悟なんてできていない私の嗣翠防御力はゼロに等しい。
すると、嗣翠は組のお仕事のスーツ姿でつかつかと歩いてきた。
私の目の前まで来て、15センチくらい下の私を見下ろす。
何だこの身長と美貌の暴力は。
「今のやり取り、同棲を感じて好きだけど・・・・・・」
「・・・?」
いつの間に同棲にランクアップされたんだ?
うーん、おかしいな。同棲じゃなくて同居じゃなかったか?
「おはようといってらっしゃいのハグは?」
「・・・⁉︎」
フリーズした。
やっぱり覚悟なんてできていなかったらしい。
甘々な声で甘々なことを言われると困る。対処法がわからない。
っていうかいきなり変わりすぎじゃない⁉︎それだけ今まで我慢してくれてたの?
「は、はぐ?」
「ハグ」
「あ、あとじゃだめ?」
「俺が逃すと思う?」
嗣翠が視線だけで私を捕らえた。
ああ、これだ。この視線で見られると逃げられない。
だから最初会ったときも、ベルガモットだって言ってしまった。
「うー・・・」
ハグをしなきゃ永遠にこのままだろう。
逃げられずご飯を食べられず、嗣翠は仕事に行かない。
・・・背に腹は代えられないとはこのことか・・・・・・っ!
「・・・・・・・・・」
「・・・!」
私は無言で嗣翠に飛びついた。
嗣翠の肩の下あたりに顔を埋めて火照りを隠す。だめだ心臓のせいで隠せていないなこれは。
「はー・・・・・・やば、これ最高」
嗣翠のそんな呟きが聞こえたと思ったけど、無視した。
私にどうしろと。返事とかできるわけない。
しばらくして私と嗣翠が体を離すと、ぽん、と嗣翠は頭を撫でてくれた。
「朝飯はしっかり食べて。昼には戻る」
「・・・うん、わかった。気をつけてね」
「ああ」
柔らかく微笑んで、嗣翠は去っていく。
・・・やっぱり無理だ、覚悟なんて。
何を迫られるかわかんないし、甘々すぎて意味わかんないし。
恋愛小説見たのになあ・・・。自分のことになるとまるっきりわからない。
現実は思うようにならないものだ、と私はハグの感触を思い出しながら考えていた。
「・・・ああ、おかえり、嗣翠」
「ただいま」
無事お仕事を終えたらしい嗣翠は、予告通りお昼に帰ってきた。
学校の週末課題と『殺し屋アルケー』の定期的な監視を終えてまったりしていた私は、嗣翠に声をかける。
嗣翠は疲労した様子でスーツのジャケットを脱いだ。
「お仕事、大変だった?」
「まあね。最近はずっと地味に手のかかる面倒な仕事ばっかだよ」
「嫌がらせかもね」
父親、一ノ瀬 緋玉からの。
組長と若頭が仲良くないっていうのは一ノ瀬組だけじゃなくて結構広く知られている。
その理由はこうしてあからさまな組長からの嫌がらせがあるからだ。
嗣翠が有能だからまだ排除されていないけど、流石に一ノ瀬組全体で敵対されたら嗣翠も無事じゃ済まない。
こうした微妙な関係が続いていると、そのうち他から内部分裂の隙を突かれるだろう。
「まったく、あの男の気まぐれさには頭が痛いよ」
嗣翠は緋玉を想像したのか、嫌そうな顔をした。
それからワイシャツにネクタイという姿のまま私の隣に座り、ため息を吐く。
嗣翠の心労も絶えないな。
「・・・ねえ、嗣翠」
「何?」
「今度、本屋行かない?」
「本屋?」
「ちょっと買いたい本があって」
これは少し前から思っていたことだったんだけど。
私は、今どうしても欲しい本がある。
「1人で行っていいなら、放課後にでも行ってくるんだけど」
「だめ、俺も行く」
「でしょ?だから今度2人で行こ」
嗣翠の心配性っぷりは健在みたいだ。
それでも私がおねだりしたのが嬉しかったのか、嗣翠は機嫌が良さそうにして私の髪を耳にかけ、頬にちゅっとキスしてきた。
「◎△$♪×¥○&%#?!」
「・・・かわいい。これくらいで照れるんだ」
「これくらい⁉︎」
頬にキスって私の中じゃあだいぶ上位の恥ずかしい行為なんですが!
ハグだけでもやばかったのに、ほっぺにキスとか!ほっぺ!ほっぺが!!!
「・・・椿、意外とウブなんだ」
「うるさいな!」
ウブって言われた!恋愛小説読んでたのに!
・・・わかってる。本当は・・・く、唇にキスとか、そういうのがあるってわかってる!!
だけどそれって、あまりにも、あまりにも恥ずかしくない・・・⁉︎
「鈍いしウブだし、さては椿、恋愛弱者?」
「・・・・・・言い返せない・・・」
悔しい・・・そういう嗣翠だって恋愛感情最近知ったくせに。
でも本当のことなんだよな・・・。情けない。
「ふは」
「な、何で笑うのさ」
「椿はそれでいいんだよ」
嗣翠は楽しそうにしながらわしゃわしゃと髪を撫でてきた。
私が恋愛に慣れていないのがそんなに嬉しいのか。
むう、と私は唇をとがらせる。
すると、それを見た嗣翠の目が変わった。
あ、やべ。
変なスイッチ押しちゃったかも。
「でも、そんなに悔しいなら――」
嗣翠が、私に手を伸ばす。
そして気づけば、ソファに押し倒されていた。
「ええええ、ちょ、何この状況」
「――練習してみる?恋愛」
恋愛を練習ってどういうこと。
意味のわからないことを言われても、それは聞けなかった。
だって知ってるもん。これ聞いちゃいけないやつだ。
だから私は頬が熱くなるのを感じながら戸惑うしかない。
「し、嗣翠」
「ん?」
まただ。
また、嗣翠の目に囚われる。
これじゃあもう逃げられない・・・!
戸惑っている間に、嗣翠がネクタイを片手で緩めた。
うわ、ちょ、目の毒すぎるんですけど。
でも目を背けられない。それを嗣翠が許さない。
「椿」
嗣翠が近づいてくる。
朝みたいに、鼻がくっつきそうな距離になるのかと思うと、心臓が壊れそうなくらい恥ずかしい。
「椿、好き」
「し、すい」
せめてもの抵抗として、私は後ろに手をついて体を反らせる。
逃げられないけど、これで距離を取ったつもりだった。
けどまだだめだ。もっと嗣翠は近づいてくる。
たぶん、恥ずかしいだけで私が嫌じゃないのがバレてる。
そう、嫌なんじゃない。慣れなくて、戸惑ってるだけ。
・・・・・・それでも死んじゃう、恥ずかしすぎて死んじゃう!
さらに体を下げようと、手をもっと後ろに、
「わっ」
「椿!」
と思ったら、そこにはもうソファはなかった。
どうやらソファの隅まできていたらしい。
手は虚空を滑り、私が体勢を崩してソファから落ちる。
やっば、気づかなかった!お、落ちちゃう落ちちゃう!!
慌てて嗣翠に手を伸ばすと、嗣翠が私を庇おうとする動きが見えて――
「・・・っ⁉︎」
「――・・・・・・・・・」
・・・え。
私たちの時間が、止まった。
・・・・・・。
待って、本当に待とう。
何が、何が起きてるの。
嗣翠が私を庇おうとしてくれて、私を引っ張って嗣翠が下になって、床に落ちて、私は嗣翠の上に落ちて。
・・・・・・・・・唇が。
「・・・・・・・・・⁉︎」
唇が。
く、くちびるが・・・・・・⁉︎
唇が、重なって・・・⁉︎
「あわっ、ごめ、すぐ退く――」
慌てて床に手をついて、起きあがろうとするけれど。
「椿」
腰に両腕を回されて、不意打ち。
急に力を込められて、私の腕からがくんっと力が抜けた。
嘘、ちょっと待ってよ・・・!
慌てるのも束の間、再び嗣翠の上に落ちた私は、今度は本当に嗣翠にキスをされた。
「ん、ちょ、まっ」
「待たない。覚悟してって言った」
覚悟なんて、できるわけないのに。
私の心境もつゆ知らず、嗣翠は私の唇を貪る。
頭を離そうにも、もう嗣翠の片手が私の後頭部をがっちり押さえていてできなかった。
「んん・・・・・・」
「・・・・・・椿、大好き」
あたまがぼんやりする。
嗣翠のことしかかんがえられなくなって、体がふわふわしてくる。
「は・・・っ」
「鼻で吸うんだよ」
「そんなこと、言われても・・・・・・ん、ふ・・・」
はく、と酸素を求める私に、嗣翠が言ってきたけど、わからない。
ぜんぜん思考がまとまらなくて、どうすればいいのか。
「う・・・・・・ぁ」
また息苦しくなって口を開くと、今度は変なものが入ってきた。
それは私の口の中を蹂躙していって、お腹の奥がうずうずしてくる。
な、何、これ、まって、はずかし、甘い、あつい。
頭がぐっちゃぐちゃで、ただされるがままになってしまう。
「・・・椿」
「しすい・・・っ」
「かわいいよ。ゆっくりね」
す、と私が鼻で息を吸ったのを確認して、嗣翠は私の頭を撫でてくれた。
優しい声に、優しい手つきに、少しだけ思考がまとまる。
・・・あ、そっか。嗣翠の舌が、口に・・・・・・。
く、口に・・・⁉︎
「んん」
嗣翠の舌が私の舌に絡まる。
それは認識したけど、思考が追いつかない。
「ふあ・・・っ」
「・・・っ、あーまじで、かわいすぎかよ」
まだまだキスは止まらない。
どんどん深くなって、深くなって、頭がまた混ぜこぜになっていく。
・・・なんか、気持ちいい、かも。
嫌じゃないし、なんか、よく、わかんないけど・・・っ。
「・・・今日はここまで、かな」
「ぁ・・・っ」
舌が、ようやく口から抜けていく。
ふにゃふにゃになっている私を撫でてから、嗣翠は私を抱き上げた。
「へ・・・」
「続きはまた今度。お前、腰抜けて立てないでしょ」
・・・確かに、足に力が入らない。
・・・・・・何で?
まさか、き、キスしたから・・・⁉︎
「・・・・・・・・・」
「かわいかった」
なぜ嗣翠には考えていることを当てられてしまうのか。
見計らったようなタイミングでそう言われ、私は思わずぽかりと嗣翠を叩いた。
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それから、嗣翠はことあるごとにキスをしてくるようになった。
抵抗らしい抵抗をしなかったから、嫌じゃないのが丸わかりだったらしい。
・・・私も私で、やめてよ、とか言っている割には拒めないでいる。
そんな毎日が続き、それでも慣れることができずに毎日心臓に悪い日々を過ごしていた。
そして今日は。
「さあ、狙うぜ総合優勝ー!」
「おー!!」
晴哉くんの雄叫びに、クラス中が共鳴する。
そう、今日は待ちに待った球技大会だ。
スポーツ不得意なりかちゃんも心なしかワクワクしている。
私は嗣翠と約束した通りバドのシングルスの枠を勝ち取った。
「絶対優勝する・・・!」
「椿ずっとそれ言ってんね。優勝でご褒美でももらえんの?」
「ご褒美?そっちこそ、頑張ったら晴哉くんからご褒美でももらえんの?」
「貰わないもん!!!」
ふふふ、私はもう都合の悪いときにりかちゃんに話題をすり替えるという秘技を獲得したからね。
もうこれでドギマギする必要なし!
・・・正直、今は嗣翠をめっちゃ意識しちゃってなんかやばいから、このまま話を続けると危ないので。
「晴哉くんはバスケだっけ」
「サッカーなくて落ち込んでたね」
「そだね、でもなんだかんだ燃えてるっぽい」
私たちの視線の先には、男子たちと一緒に優勝した後の打ち上げの相談をしている晴哉くんがいる。
気が早すぎなような気もするが、打ち上げが決まっていたら勝たないと、という気持ちになるのも確かだ。
さて、話は戻すが、私と嗣翠はバドで勝負する約束をしている。
嗣翠と私が絶対にぶつかる――つまり2人がどっちも決勝まで進む、と確信しているらしい嗣翠。
大した自信と信頼だ。けどそれは間違っていない。
でもまあそれはそれとして、問題は。
そう、ご褒美。ご褒美である。勝った方のご褒美。
前回の中間考査は勝った方が命令できる、だったっけ。
「・・・・・・・・・」
私は静かに深呼吸をした。
嗣翠め、私が嗣翠には勝てないだろうと最初から思っているのを見抜いてきた。
その上で、私が「絶対勝ってやる」って思うような「ご褒美」にしてきたのだ。
《負けた方が文化祭で、勝った方の好きなコスプレをする》
・・・・・・ぷんぷんする。嗣翠がノリノリでコスプレを選びそうな匂いが。
これは絶対勝たせちゃいけない。
そもそも文化祭、何でコスプレOKになってるんだ。そこはクラスTシャツとかだろうに・・・。
それを聞いてみたら、「文化祭くらい羽目を外してほしい」だぁ?コスプレでハメを外す必要ないだろうに。
というわけでまあ、私はコスプレを回避するために勝たねばならないのだ。
あと単に嗣翠のコスプレ姿は見たい。正直言うと。
季節は初夏。始業式はあっと言う間に過ぎて、もう5月だ。
文化祭は7月。
まだまだ先だけど、かといってゆったりしてもいられないので、ここは勝ちたい。
「それはそれとして、だよ」
「うん?」
「中間考査の正式な成績表、見た?」
「ああ、見た見た」
999点、学年一位だった。あーあの現代国語の先生まじで恨む。次のテストまで引きずる。
それを思い出して歯噛みしていると、りかちゃんは爆弾を落としてきた。
「2年、1位が2人いるって3位の人が騒いでたの。何でも、999点だったのに3位だったとかで」
なんと。私と同じ屈辱を味わった人がいたとは。心中お察しします。
けど、それよりも。1位が2人?1000点が2人いるの?まじで?
「1人が成瀬 嗣翠さんね、知ってると思うけど」
「うん」
「で、2人目が――」
ふむふむ、と2人目の名前を拝聴しようとしたそのとき。
もうすぐ一試合目が始まる各競技の観戦に行ったり、しばらく教室で雑談したりする人が行き交い、にぎやかな空間の中。
教室のドアがいきなりガラッと開かれた。
「八神 椿って人いるかー?」
・・・・・・なんか、猛烈に逃げたくなってきた。
最近よく感じる嫌な予感が、また到来してくる。
「はいはーい、この人だよー!」
「椿になんか用か?」
そんな中私を差し出すりかちゃんと晴哉くん。
うう、そういうときまで他人に優しくしなくても・・・っ!
仕方なく、「私です」と言うと、私を呼んだ男の人は言うのだった。
「朝比奈さんが呼んでるからさ、来てくんない?」
そのとき、教室中の女の子という女の子が「きゃー!」とはしゃいだ。イベントマジックだろうか。
「ちょ、あんた何者⁉︎朝比奈さんまで知り合いなの⁉︎」
りかちゃんが肩を揺さぶってくるけど、本当にまじで意味がわからない。
呼んでるから来て?もしかしてカツアゲ?それともまた過激ファン?
「とりあえず朝比奈さんって誰・・・⁉︎」
「え、何知らないの?てっきり知り合いなのかと」
「見たことも聞いたこともないよ」
「世間知らずだなおい、俺でも知ってるぞ」
晴哉くんが驚いたように私を見て、朝比奈さんとは誰かを教えてくれた。
「朝比奈 晃太郎っていう先輩。中間考査で1000点満点だった2年の人で、サッカー部でさ。」
晴哉くんは心底その人を尊敬しているみたいで、憧れを瞳に宿して語る。
「あの人は――」
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