本当の愛を知るまでは

そのまま直帰でも構わなかったが、中途半端にやり残した作業があり、オフィスに立ち寄った。
案の定、オフィスにはもう誰もいない。

(明日はさすがに7時出社はやめようかな)

そう思いながら作業を終えてパソコンを閉じ、カバンを手に1階へ下りた。

(わっ、なんだか怖い)

エレベーターが開くと、シンと静まり返ったロビーに身がすくむ。
さっさと通り抜けようと足を踏み出した時、隣のエレベーターがポンと開いて思わずビクッとした。

(こんな時間にまだ誰かいたの? もう0時近いのに)

カバンを持つ手にギュッと力を込めて歩き出すと、「森川さん?」と声がした。

「え? あ、上条社長!」
「どうした? こんなに遅くに」

光星は心配そうに歩み寄る。

「あ、えっと、トラブルがあって外回りをしていたので……」
「だからって、女の子がこんなに夜遅くに一人でいるなんて。これから帰るの?」
「はい、そうです」
「車で送る。行こう」

そう言うとスーツのポケットから車のキーを取り出して歩き出す。
花純は仕方なく後ろをついて行った。

エントランスの大きな自動ドアではなく、その横の小さなドアをIDカードをかざして開けると、光星は「どうぞ」と花純を促す。

「ありがとうございます。ここって駐車場に繋がってるんですね」
「そう。あんまり広くないから、案外知られてないんだけどね」
「社長は運転もご自分でされるんですか?」
「ん? もちろん。どうして?」
「いえ、大企業の社長さんって、お抱えの運転手さんがいるイメージだったので。もしくは秘書さんが運転されるとか」
「そんなご立派な企業じゃないよ。それに俺の秘書、本職はパティシエなんだ」

ええ!?と花純は、驚いて仰け反る。

「臼井さん、パティシエだったんですか?」
「そう。君が気に入ってくれたあの焼き菓子も臼井が作ったんだ。取引先とかお客様に出すお菓子を毎日届けてもらってる。そのついでに秘書もやってくれって頼んだんだ。高校時代の同級生で、気心も知れてるからね。どうぞ、乗って」
「え、あ、はい」

情報過多で混乱しているうちに、光星は白い高級車のドアを開けて促した。

「失礼します」
「ドア閉めるよ」
「はい」

パタンとドアが閉まり、革張りのシートに座った花純はドキドキする。

(なんだか上条社長のお部屋にお邪魔したみたい。こういう感じが好みなんだ。いい香りがするなあ)

内装をぐるりと見渡していると、光星が運転席に乗り込んできて、花純は居住まいを正す。

「えっと、自宅マンションの住所を聞いてもいい?」
「はい」

エンジンをかけてカーナビをセットすると、光星はゆっくりと車を発進させた。
聴こえてきた洋楽の歌に、何の曲だろうと思っていると、気づいた光星が「あ、ごめん」とオーディオのディスプレイに手を伸ばす。

「知らない曲だよね。ラジオに変えようか?」
「いいえ、大丈夫です。素敵な曲だなと思っていたので」
「少し古い洋楽なんだ。君は若いから知らないだろうな」
「 私、そんなに若くないですよ。28です」

そうなの?と驚いてから、光星は「ごめん」と慌てて謝る。

「俺より10歳くらい下かと思ってたから、つい。失礼」
「社長より10歳下ってことは、ハタチとかですか?」
「いやいや、なんで? 俺、33だよ」
「そうなんですね。私と同い年くらいに見えるけど、社長さんだからさすがにもうちょっと上の30歳かなと思ってました」
「そうか。でも5歳違うんだね。流行りの曲に変えようか?」
「いえ、ほんとに大丈夫です。このまま聴かせてください」

そう言って花純は、英語のバラードに耳を澄ませた。
ダークな色合いの車内に流れる大人っぽい歌。
何だか自分まで大人の女性になれたような気がする。
会話もなく、ただ静かに歌に聴き入った。
密室に二人きりなのに、この空間の今の雰囲気が心地良い。

やがて花純のマンションが近づいて来ると、光星が控えめに切り出した。

「夜遅いのにごめん。良かったら、君が写真を撮ったあの桜を見せてもらえない?」
「え? あ、はい。じゃあ、次の信号を右に曲がってください。しばらく直進すると川沿いに出ますから」
「分かった」

カチカチと小気味良いウインカーの音と共に、ゆっくりと車が右折する。
そのまま真っ直ぐ走ると、前方に桜の木が見えてきた。

「これは……、見事だな」

圧倒されたように光星が呟く。

「本当に。夜の桜はまた趣がありますね」
「車を停めて少し歩いてもいい?」
「ええ、もちろん」