***
天音さんと駅で別れてから、僕はシャテーニュの前に立った。
一年と数ヶ月ぶり。だけど、まるで何年も旅をしていたような気分だった。
クリスマスが終わってから慌ただしく引き継ぎをして日本を立ったから、スタッフのみんなも大変だっただろう。でも、みんなは優秀だから、僕がいなくても大丈夫だと思ったから。
僕は安心してフランスへ行くことができた。
今日のシャテーニュは、行列ができるほどのお客様はいないようだ。
それに、予想していたことだけど、僕がフランスへ行ってから客足は少なくなったらしい。
見た目だけで判断されるのは、本当に気分のいいものではない。
だけどこの先、シャテーニュと天音さんとの未来を考えると……。
僕は、腹を括らなければならないのかもしれない。
スーツケースの持ち手をぐっと握りしめ、シャテーニュの裏手へ向かった。
裏手の通用口の扉を開けると、焼きたてのフィナンシェの甘い香りが鼻をくすぐった。ああ、この匂い。懐かしい。
「……ただいま」
ぽつりと漏らした声に、振り返ったスタッフたちの表情が一斉に明るくなる。
「愁さん!?」
「シェフ、おかえりなさい!!」
一番に飛び出してきたのは、スーシェフの片瀬。満面の笑みで僕の前に立つ。
「本当に帰ってきたんですね……! やっぱり愁さんがいないと、厨房が締まらないんですから」
「留守番、ありがとう。おかげで安心してフランス行けたよ」
そう言うと、後ろから他のスタッフたちも続々と集まってくる。中には目をうるうるさせてる子もいて、なんだか照れくさくなった。
「フランスのプロジェクトはどうだったんですか?」
「うん、いい感じに終わったよ。でも、今回は本当に勉強になったよ」
「愁さんがいない間、ちょっと事故があって……」
一人のスタッフが天板を指差す。
「ほら、見てくださいよこれ! 天板、だいぶ焦がしちゃったんですよ。愁さんなら一発で温度感見抜けたのに」
「でも、掃除は頑張ったんですからね!」
と別の子が即座にフォローを入れる。
みんな変わっていない。安心した。
「あと……去年のコンテスト、やっぱりファリーヌのシェフに勝てませんでした」
誰かがぽつりと呟く。
ファリーヌのシェフ──天音さんのお父さん。やはり彼が金賞だったか。
「その前は愁さんが優勝だったのに……」
「やっぱり、愁さんじゃないと!」
「うちの誇りですから!」
そんな風に言われると、少し背筋が伸びる。
そして、控え室にスーツケースを置いて上着を脱ぎ、コックコートに着替える。
「シェフ、今日から戻るんですか?」
「うん。早く勘を取り戻さないとね」
厨房に立つと、店内の一角からざわめきが起こった。
常連さんらしき女性グループが、さりげなく僕の方に視線を送っている。
「え、栗本さん!?」
「うそ、本人?」
「フランスから帰ってきたの……?」
その様子を見た販売員の女の子が苦笑している。
「また行列増えますね、これ……」
ぼそっと呟いたのが聞こえた。
そこへ、片瀬が追い打ちをかけるように言ってきた。
「今度から『シェフ出勤日』ってこっそり告知しときます?」
「冗談やめてくれ……」
苦笑いしながら、みんなで翌日の仕込みに入る。
ステンレスの作業台、オーブン、冷蔵庫──どれも懐かしくて、つい口元が緩む。
フランスでは、天音さんに僕のケーキを食べてもらう機会がなかった。
日本では、それができる。
また彼女と一緒に、コーヒーを飲みながらケーキを食べて、語り合いたい。
そんなことを思いながら、オーブンの火加減を見る。
(まいったな……)
さっき駅で手を振って別れたばかりなのに。
数日後にはまた会えるのに。
もう、会いたくなっている。
天音さんと駅で別れてから、僕はシャテーニュの前に立った。
一年と数ヶ月ぶり。だけど、まるで何年も旅をしていたような気分だった。
クリスマスが終わってから慌ただしく引き継ぎをして日本を立ったから、スタッフのみんなも大変だっただろう。でも、みんなは優秀だから、僕がいなくても大丈夫だと思ったから。
僕は安心してフランスへ行くことができた。
今日のシャテーニュは、行列ができるほどのお客様はいないようだ。
それに、予想していたことだけど、僕がフランスへ行ってから客足は少なくなったらしい。
見た目だけで判断されるのは、本当に気分のいいものではない。
だけどこの先、シャテーニュと天音さんとの未来を考えると……。
僕は、腹を括らなければならないのかもしれない。
スーツケースの持ち手をぐっと握りしめ、シャテーニュの裏手へ向かった。
裏手の通用口の扉を開けると、焼きたてのフィナンシェの甘い香りが鼻をくすぐった。ああ、この匂い。懐かしい。
「……ただいま」
ぽつりと漏らした声に、振り返ったスタッフたちの表情が一斉に明るくなる。
「愁さん!?」
「シェフ、おかえりなさい!!」
一番に飛び出してきたのは、スーシェフの片瀬。満面の笑みで僕の前に立つ。
「本当に帰ってきたんですね……! やっぱり愁さんがいないと、厨房が締まらないんですから」
「留守番、ありがとう。おかげで安心してフランス行けたよ」
そう言うと、後ろから他のスタッフたちも続々と集まってくる。中には目をうるうるさせてる子もいて、なんだか照れくさくなった。
「フランスのプロジェクトはどうだったんですか?」
「うん、いい感じに終わったよ。でも、今回は本当に勉強になったよ」
「愁さんがいない間、ちょっと事故があって……」
一人のスタッフが天板を指差す。
「ほら、見てくださいよこれ! 天板、だいぶ焦がしちゃったんですよ。愁さんなら一発で温度感見抜けたのに」
「でも、掃除は頑張ったんですからね!」
と別の子が即座にフォローを入れる。
みんな変わっていない。安心した。
「あと……去年のコンテスト、やっぱりファリーヌのシェフに勝てませんでした」
誰かがぽつりと呟く。
ファリーヌのシェフ──天音さんのお父さん。やはり彼が金賞だったか。
「その前は愁さんが優勝だったのに……」
「やっぱり、愁さんじゃないと!」
「うちの誇りですから!」
そんな風に言われると、少し背筋が伸びる。
そして、控え室にスーツケースを置いて上着を脱ぎ、コックコートに着替える。
「シェフ、今日から戻るんですか?」
「うん。早く勘を取り戻さないとね」
厨房に立つと、店内の一角からざわめきが起こった。
常連さんらしき女性グループが、さりげなく僕の方に視線を送っている。
「え、栗本さん!?」
「うそ、本人?」
「フランスから帰ってきたの……?」
その様子を見た販売員の女の子が苦笑している。
「また行列増えますね、これ……」
ぼそっと呟いたのが聞こえた。
そこへ、片瀬が追い打ちをかけるように言ってきた。
「今度から『シェフ出勤日』ってこっそり告知しときます?」
「冗談やめてくれ……」
苦笑いしながら、みんなで翌日の仕込みに入る。
ステンレスの作業台、オーブン、冷蔵庫──どれも懐かしくて、つい口元が緩む。
フランスでは、天音さんに僕のケーキを食べてもらう機会がなかった。
日本では、それができる。
また彼女と一緒に、コーヒーを飲みながらケーキを食べて、語り合いたい。
そんなことを思いながら、オーブンの火加減を見る。
(まいったな……)
さっき駅で手を振って別れたばかりなのに。
数日後にはまた会えるのに。
もう、会いたくなっている。



