宇野(うの)、そろそろ行くぞ」

腕時計で時間を確認した日向(ひゅうが)は、顔を上げて入り口近くのデスクに目を向ける。
だが、声をかけた相手は席にいなかった。

「あいつー!またどっかで油売ってるな?」

立ち上がり、急いでオフィスを出る。
足早に廊下を歩いていると、同期でパブリッシング事業部所属の椿(つばき)の背中が見えた。

「椿!」

後ろから呼びかけて歩み寄る。
ゆるく巻いたロングヘアを揺らして振り返った椿は、担当している女性雑誌を胸に抱えていた。

「日向、お疲れー。どうしたの?」
「お疲れ、呼び止めて悪い。宇野がどこにいるか知らないか?」
「ひよちゃん?見てないけど、多分リフレッシュラウンジじゃないかな。飲み物買いに行ったらアイデアが降ってきて、スケッチに没頭してるっていうのがお決まりのパターンだから」

はあ……、と日向はため息をつく。

「やっぱりそうだよな。なんとかならんのか?あいつのすぐ没頭するクセ」
「無理だよー。だってひよちゃん、一度スイッチ入ったら何にも見えないし、聞こえなくなるんだもん。こっちが諦めるしかないよ」
「そんなんで仕事になるかよ?」
「確かにね。だけどすごいんだよ?そういう時に生み出されるひよちゃんのアイデア!うちのパブリッシング事業部にいたのはたった1ヶ月だったのに、ひよちゃんが考えたオリジナルのフォント、ものすごく可愛くてオシャレなの。この雑誌にも即採用!評判もいいんだよ」

そう言って椿は、胸に抱えていた雑誌をペラペラとめくり始めた。

「日向も見てみる?あのね、手書きフォントっぽいけどセンスが良くて……」
「ごめん、椿。急いでるから、また今度な」
「あ、そっか。じゃあ今夜の同期会でね」
「ああ」

軽く手を挙げて椿と別れると、日向は廊下の端まで行き、エレベーターホールを右へと曲がる。
壁一面の窓に囲まれた広いスペースに出ると、カウンターチェアに座ってスケッチブックに鉛筆を走らせている日和(ひより)を見つけた。

やれやれとため息をついてから、日向は近づいて声をかける。

「宇野!おーい、宇野!」

すぐそばで呼んでも全く反応しない。

「うーのー!」

視界に入るように思い切り顔を寄せると、日和はビクッと身体を跳ねさせた。
ガタン!とカウンターチェアが斜めに傾き、そのまま日和は後ろに倒れそうになる。

「きゃ……」
「あぶなっ!」

日向は慌てて腕を伸ばした。
片手で抱き寄せただけなのに、小柄な日和の身体はすっぽりと日向の胸に収まる。

「え?……なに?」

身長180cmの日向に対して20cm以上低い日和は、抱きしめられている己の状況が分からず、ただ目の前に何かが迫っているとしか思っていないようだった。

「宇野、今何時か知ってるか?」

日向が低い声で尋ねると、え?と顔を上げた日和は「ひゃあ!」と声を上げて後ずさる。

「さ、佐野さん、ですか?」
「ですか、じゃない!今何時で、このあとの予定が何だったか、言ってみろ」
「えっと……、今は1時55分ですね。このあとの予定は確か、鈴鹿商事への訪問だったかと」
「そう。何時にここを出る予定だった?」
「2時です。……あっ!」
「ようやく気づいたか。早く支度しろ」
「はい!」

日和はスケッチブックを手に、急いでオフィスへと戻った。