――それからさらに一ヶ月が過ぎ、梅雨入りした六月のある日の夜。愛美をピンチが襲った。

「え~~~~っ!? ウソでしょ……」

 勉強スペースで愛美が頭を抱えて困り果てている。まるでこの世の終わりみたいな様子の彼女に、各々課題をこなしていたさやかと珠莉は一体何事かと腰を浮かせた。

「どしたの、愛美。急に絶望的な声出しちゃって」

「そうよ、愛美さん。いつもポジティブで悩みなんてなさそうなあなたがそんなに落ち込むなんて」

「……珠莉、アンタは一言余計だよ」

 それはともかく、とさやかが改めて愛美に声をかける。……そういうさやかも結構辛辣な方だと思うのだけれど。

「それがね、さやかちゃん。わたしのパソコン、急に動かなくなっちゃったの。もう大ピンチだよ……」

「あらら……。それは確かに大ピンチだねぇ。だって、愛美にとっては大事な商売道具だもんね」

 そりゃ絶望的にもなるわ、とさやかが納得し、珠莉もうんうんと頷く。
 愛美は作家デビューする前からずっとこのパソコンを使い続けていて、もはや商売道具を通り越して相棒のようなものなのだ。それが動かなくなったとなれば、彼女がこの世の終わりのような気持ちになるのも無理はない。

「それだけじゃなくて、大学のレポートだってこのパソコンで書いてるんだよ。今は作家の仕事がないからまだいいけど」

 パソコンが使えないと、レポートも手書きするか、キャンパス内のパソコンルームか文芸サークルの部室にあるパソコンを使わせてもらうしかない。もしくはネットカフェに行くか。

「ねえ愛美、今はレポート書いてるの?」

「うん……。一応、書きかけのデータはUSBに保存してあるけど」

「だったらさ、差し当たり、しばらくはあたしのパソコン使っとく? この部屋にいる時限定で、だけど」

 そりゃそうだ。さやかだって課題やレポートでパソコンを使うだろうから、愛美が借りっぱなしというわけにもいかない。

「えっ、いいの? ありがとう、さやかちゃん! じゃあさっそくお借りします」

 愛美はさやかから借りたパソコンにUSBメモリーを差し込み、レポートの続きを書き始めたけれど……。

「でも愛美さん、当面の間はそれでいいとしても、いつまでもさやかさんのパソコンをお借りしているわけにはいかないんじゃなくて?」

「うん……、そうだよね。どうしたもんかな……?」

「でしたら、純也叔父さまに新しいパソコンをおねだりしてみたらどうかしら?」

「…………えっ!? 珠莉ちゃん、何言ってるの!?」

 もちろん、珠莉が言っているのは「〝あしながおじさん〟である純也さんに新しいパソコンを買ってほしいとお願いしてみたらどうか」という意味だと愛美も分かっているのだけれど。

「そんなことしなくても、新しいパソコンくらい自分で買えるもん。お金ならあるし」

 自分の口座にある見舞金に、愛美はまだまったく手を付けていないのだ。

「自分で買えるのはいいとして、セキュリティソフトのインストールとか、あなたは自分でおできになるのかしら?」

「それは…………」

 愛美には答えられなかった。そういえば、そういう初期の初期の設定からやったことはないかもしれない。

「だったら、結局のところは叔父さまを頼るほかないんじゃなくて?」

「っていうか、何も新しいの買う必要なくない? そのパソコン、壊れたわけじゃないんでしょ?」

「うん。ネットは使えるから……。動かないのはワードだけみたい」

「ってことは、OSのバージョンが古くなった、とかかなぁ。とりあえず、純也さんに連絡とって相談してみたら?」

「……そうだね。どっちみち、純也さんに電話するしかないか」

 愛美はスマホを取り出した。履歴から純也さんの番号を呼び出してリダイアルする。

『――もしもし、愛美ちゃん。こんな夜遅くにどうしたんだ?』

「純也さん、急にゴメンね。わたし今ピンチで、助けてほしいんだけど……」

 〝ピンチ〟と言っているわりにはそれほど切羽詰まっていない愛美の様子が伝わったのか、彼は落ち着いている。

『ピンチって、何かあったの?』

「それがね……、パソコンが急に動かなくなっちゃって困ってるの。ネットは繋がるんだけど、ワードが動かなくて」

『うん……、なるほど』

 愛美はそこで、さやかが「OSのバージョンが古くなっているせいではないか」と指摘していることを彼に伝えた。

「とにかく、わたしたちが見ても分かんないから、純也さんに一度見てほしいんだけど。大丈夫かな?」

『分かった。じゃあ明日の夕方にでも、俺がそっちに行ってパソコンを見せてもらうよ。愛美ちゃん、明日の講義は?』

「明日はそれほど詰まってないから、四時ごろから予定は空いてるけど。さすがに寮まで来てもらうわけには……」

 高校の寮とは違って、大学の学生寮は男性の出入りに厳しいのだ。

『ああ、そうか……。じゃあこうしよう。そっちの女子大近くのカフェまでパソコンを持ってきてくれたら、そこで見てあげるよ。それでもいいかな?』

「うん、それで大丈夫! ありがとう、純也さん! それじゃ明日の夕方、よろしくお願いします。おやすみなさい」

『ああ、おやすみ』

 ――こうして、愛美はノートパソコンの不具合というピンチを、純也さんの力を借りて乗り越えることとなった。