求婚は突然に…       孤独なピアニストの執着愛

 「心奈が泣くと苦しくなる。あの頃、泣いてる心奈を助けてあげる事が出来なくて辛い思いをしたんだ。」 
紫音さんはそれから昔の思い出を話してくれた。

当時陸上部の顧問をしていた先生はとても厳しくて、少しでもタイムが落ちると叱咤や罵倒が当たり前の人だった。人によっては叩かれた子もいたらしく、2年になる手前で体罰問題が起き、離職していなくなったのだけど…

その顧問に私が何度か怒られて、人知れず泣いているところを2階の音楽室から見ていたらしい。

「どうにかして助けてあげたかったけど、全く知らない奴が、突然出て来たところで何の役にも立たないだろうと…今思えば、単に勇気が無かっただけだ。その事もずっと後悔してた。」

そんな風に私の事を見守ってくれていた人がいたなんて、それだけでなんだか嬉しくてあの頃の私に伝えてあげたい。

「知らないうちに紫音さんに見守られていたなんて嬉しいです。それだけであの頃の私が報われた気がします。」
心がほっこりしていつの間にか涙も止まっていた。

気持ちが落ち着いた分、公共の場で抱き合ってしまった恥ずかしさが今度は押し寄せてくる。

8時過ぎのロビーにはあまり人はいないけれど、それでもフロントには従業員がいるし、ロビー近くの喫茶店でコーヒーを飲んだり、新聞を読んだり寛いでいる人も数人いる。

どのくらいの人に見られていたんだろうと、恥ずかしさでこの場に居られなくなる。

「紫音さん、そろそろお部屋に戻りましょ。かなり目立ってしまった気がします。」
慌ててその手を握りピアノから離れようとする。

すると、小さな幼稚園児ぐらいの女の子がニコニコと、近くにやって来るのが見えるから、私はそっと離れ2人の様子を見守る。

トコトコと歩いて来たその子が、人なつっこい笑顔を見せて、
「お兄ちゃん、ピアノ上手だね。あれ弾ける?きらきら星!聴きたい聴きたい!!」
無邪気にそう言って紫音さんの手を引っ張る。彼は若干苦笑いをしながら、

「じゃあ、一曲だけ。」
と、少女に伝え、私に目配せして少し待っててと指で伝えてくる。こくんと頷き、少し離れた椅子に座り様子を伺う事にする。

まだ、彼があのSIONだとは気付かれていないようだから、大丈夫だろうか…?

小さな女の子のリクエスト、きらきら星を紫音さんが引き出す。出だしはよく聞くキラキラ星で、なんだか幼稚園の先生のようで微笑ましく思った。

だけど、段々とアレンジが加わってきて、さすがピアニストというほどの壮大な音楽に変わっていく。

女の子も目を丸めてぴょんぴょんとジャンプまでして喜んでいる。

ああ、彼は本当に天才なんだなと、才能に満ち溢れた素晴らしい人なんだと、憧れにも似た気持ちで見入ってしまった。

気付けばロビーにいた人々を惹きつけ、いつの間にか十数人の人だかりが出来ていた。

曲が静かに終わると、私が座る場所から彼が見えないほどの人々に囲まれ、拍手と笑顔に溢れていた。

それを見つめていた私も感動で、また涙が溢れそうになる。

好きだな…と自然に気持ちが溢れてくる。

ピアノの音色だけじゃ無く、それをいとも簡単に奏でて、周り人をもこんなにも虜にしてしまう。

凄い人……こんな私が側に居て許されるのだろうか…。