求婚は突然に…       孤独なピアニストの執着愛

それから自転車でバイトに行って、変わらない日常に戻る。仕事のルーティンを淡々とこなしながら、昨日の事が夢だったんじゃないかと思う。

私は何も変わらずこの底辺から抜け出せず、明るい光さえ当たらない、仄暗い場所にどっぷり浸かってしまったんじゃないかと現実を見つめる。

それでも、紫音さんが明るい場所に導いてくれている。そう思えば思うほど申し訳ない気持ちが溢れ出す。

本当に私でいいんだろうか…。
気持ちは揺らぎゆらゆらと彷徨う。

そんな風に気持ちがだいぶ落ちていた早朝のラッシュ前、レジで揚げ物の準備をしているタイミングで、不意に声をかけられる。

「…おはよう。」

「いらっしゃいませ。おはようございます。」
反射的にそう言って顔を上げる。

えっ⁉︎
夜明けの眩しい太陽光を背に紫音さんが立っていた。
「ど、どうしたんですか?」
思わず驚き声を上げてしまう。

「ごめん…昨日の今日で来るのはどうかと思ったんだけど…。」
いつになくシュンとした顔をしている。

「何か…忘れ物でも?」

「いや…心奈の事が気になって、ちょっと散歩でもと思って…。」

「は、早いですね…。」
時計を見れば6時過ぎ、まだまだ人もまばらで店内も空いている時間帯。

「近くに美味しいパン屋があるんだ。早朝から焼きたてが食べられるから、バイト終わりに一緒に行かないか?」

店長は今、飲料の補充でバックヤードへ、大学生バイトの吉田君はゴミの回収をしに外に行っている。
店内には数人の客と紫音さんと私だけ。

ふふふっと笑って、こくんと頷く。
「あっ、でも後1時間ありますよ?」

「大丈夫。駅地下の喫茶店で待ってる。」
そう言いながらいつものコーヒー缶を出してくるから、
「お腹…タプタプになっちゃいますよ?」
と笑いかける。

「確かに。」
紫音さんも笑いながらそう言ってくる。

後ろに客が並んだのを察知して、サッと仕事の仮面を被り、
「180円になります。」

と伝えると、紫音さんも勘付いたのか財布を取り出し、何食わぬ顔で清算して店を出て行った。