求婚は突然に…       孤独なピアニストの執着愛

いつものように片手を差し出され、手を握れば車から丁寧に下ろしてくれる。

それからそのまま手を握られて、2階角の私の部屋まで連れて行ってくれるのだけど、まるでお姫様みたいな扱いにこのアパートは似合わな過ぎる。

クスクスと思わず笑いが漏れてしまうと、
『どうした?』というふうに振り返って目が合う。
「紫音さんにはこのアパートは似合わないなぁと思って。」
何気なしにそう言うと、

「住む場所に似合う似合わないはないだろ?俺は嫌いじゃないよ。直ぐ手の届くところに心奈が居るって凄くないか?」
と、一度も入った事無いのに言ってくる。

「確かに…狭いですけど…。
良かったらコーヒーでも飲んで行きますか?お口に合うか分かりませんが…。」
このまま帰ってしまうのも寂しくて、思い切って誘ってみる。

「はっ!?
いや…送り狼になりかねない。…今日は帰る。」

送り狼…?
紫音さんがあり得ない。
紳士で誠実な彼は、私が嫌がる事は決してしないと断言出来るから。私に嫌われたら生きていけないんでしょ?

心の中でそう言ってみる。
なんだろ…私、彼に対してさっきから強気過ぎるよね…。ちょっと可愛げないかも…

きっと他の男性なら…こんな強気な態度は出来ない…男性恐怖症の私は、男性に対しての恐怖心や服従性が強く出てしまう。
普段なら歯向かう事なんて怖くて出来ない筈なのに…。

そんな事を思いながら歩いていたら、急に止まった彼の大きな背中にぶつかってしまう。
「…痛っ。」

丁度隣の人が玄関から出て来た所を鉢合わせしてしまったようだ。
どんな人が住んでいるのか、今まで一度も会った事がなかったから、背中から挨拶しようと覗き見るのに、紫音さんが背を盾にして隠してしまう。

だから、残念ながら後ろ姿しか見ることが出来なかった。

「お隣さんですよね?今の人…一度もお会いした事がなかったので、挨拶したかったのに…。」

「挨拶なんてしなくていい。…ここに住んでますってアピールしてどうするんだ。心奈なんて若くて可愛い子が住んでるって知られたら危険なだけだ。」
渋い顔をして、お隣さんの後ろ姿を睨む紫音さんがいる。

「もしかして、引越し祝いとか配ってないよな?まぁ、男がいるってアピール出来て良かったけど。」
そう言ってまた歩き出す。

タオルをアパート全員のポストに配ってしまったけれど…それは紫音さんに言わない方が良い気がして、何も言えなくなる。

部屋の前に到着して、ポケットから鍵を出してガチャっと開ける。

「…せめて鍵はカードや指紋認証であって欲しかった…。」
紫音さんが、ハーッと分かりやすくため息を吐く。

「ありがとうございました。また…次…。」
そうだ…この先は無いと思っていたから、何の約束もしていなかった事に気付く。途端に不安が押し寄せてくる。

強がって送り迎えを断った手前何も言えなくなってしまう。

「そんなに不安そうな顔しなくても、心奈が会いたいって連絡くれたら何処へだって駆けつけるから心配するな。」
ほら見ろ、とばかりに紫音さんがフッと笑う。

「はい…。また、連絡します。」

「夜中でも朝早くでも気にしなくていいから連絡して。暖かくして、くれぐれも気を付けて行って来て。」
握られていた手がスルリと離れる。

あっ…と心細さで胸が締め付けられる。
「…紫音さんもお気を付けて…家に着いたら教えて下さい。」

「ああ、じゃあな。」
とそう言って紫音さんが背を向けて行ってしまう。階段を降りて振り返る彼に、手を振って見送ろうとすると、早く入れと手で合図してくる。

仕方なく部屋に入ったけれど、窓越しに彼の車のテールランプが見えなくなるまで見送った。