その次に彼女を見かけたのは放課後の部活が始まった時、やっぱり陸上部だったんだなと思ったのを覚えている。
それから毎日何となく、その子を2階から眺めるのが日課になった。
その頃になると、毎日一生懸命に走っているその姿に、感動すら覚えていた。
5月、6月と月日は経ち、俺は放課後に走る彼女を観るのが楽しみになった。その頃初めて彼女の名を知る。
葉月心奈。陸上部内の記録会の際に聞こえてきた顧問の声に、人知れず喜びで胸が震えた。
今まで誰かに執着する事がなかった俺が、彼女の事だけはなぜか気になってしまう。
いつだって精一杯頑張る彼女の真っ直ぐな眼差しに、気付けば恋をしていんだ…。
その後も何度か学校の階段や下駄箱ですれ違い、1人勝手にドキドキしていた。
それだけで良かった…。
どうせ俺は夏にはいなくなる。今更声をかけたところで何の意味もなさないだろう。
だけど留学まで後1か月を切った頃、信じられない奇跡が起こる。
その日も、放課後いつものようにピアノを弾きながら、陸上部の練習を観て過ごしていた。
ガラガラガラ…
ピアノを奏でてる最中に、不意に音楽室の扉が遠慮気味に開く音を聞く。
今まで廊下からキャーキャーと騒がれる事はあったが、入って来るような勇気のある奴はいなかったから、えっ⁉︎と思って振り返った。
「あっ…ごめんなさい。練習中にお邪魔して…」
こっそり入って来たつもりだったのか、彼女は申し訳なさそうに身を小さくしている。
そう、紛れもなくそこにいるのは葉月心奈その人だった。
それを認識した瞬間、ドキッと俺の心臓が高鳴った。
ピアノを弾く手を止め、ただ呆然と彼女を見つめる。驚きで気の利いた言葉さえ浮かんでこない。こんなチャンスなんてなかなか無いのに…。
「すいません…。あの、筆箱を忘れてしまって…どうぞ気にせず続けて下さい。」
彼女は申し訳なさそうにそう言って、筆箱を探しに近付いて来る。
「もしかして…これじゃないか?」
ピアノの上にあったピンクの可愛いキャラクターの筆箱を手に取り、彼女に掲げて見せると、
「そう、それです!」
パァッと笑顔になって、嬉しそうに近付いてくる彼女はキラキラと輝いていて…目が釘付けになった。
「…お邪魔しちゃってごめんなさい。ありがとうございます。」
両手を差し出してくる彼女の手に筆箱を置いた。この時の俺は手に汗を握るほど緊張していた。
ピアノの世界大会ですら緊張しなかったこの俺が…頭の片端でそう自分を叱咤する。
「いや…大丈夫。どうせただの暇潰しだから。」
俺は懸命に平静を装いそう言うと、彼女が驚きの目を向けて来る。
「私、クラッシックはあまり分からないんですが、毎日、先輩のピアノの音色に癒されています。凄くリラックス出来て部活でよい成績が出やすいんです。」
彼女の言葉に驚き、素直に嬉しくなった。
「グラウンドまで聞こえるんだ…。」
心とは裏腹に態度はどこまでも素っ気なくて、そんな自分に嫌気がさす。
「先輩の手って凄く綺麗ですね。指長くて、ピアノを弾く人の手ってこう言う手なんだ…。」
脈略無く彼女が突然そう言ってくるから、つい自分の手を見つめた。
「あっ、ごめんなさい。私、人の手見ちゃうクセがあって、気にしないで下さい。すいません失礼しました。」
やってしまったとばかりに、真っ赤になってパタパタと去って行ってしまった背中を、引き止める事も出来ず、ただ見送った。
それから残りわずかな高校生活が、俺にとってはかけがえのない時間になる。
彼女が聴いているかもと思えば、弾くピアノにも自然と気合いが入ったし、今まで弾く事もなかったJ-popなんかも弾いてみたりした。
色褪せていた俺の世界が、鮮やかに色を変えた。
ウィーンに渡ってからも、彼女の残像は色濃く残り、ふとした瞬間に浮かび上がった。街角でいる筈もない彼女の面影を探してしまう事まであった。
その後何年も経ち、それなりに遊びも覚え、後腐れない人と夜を共にする事もあったが…。
それでも彼女以外に心を揺さぶられる人に会う事はなかった。
そして、10年の月日が経ち日本に帰郷した。
この街を拠点にしたのは、ほんの偶然に過ぎない。そして、日本に到着したその足で彼女の働くコンビニへ足を運んだのも、ただの気まぐれだった。
そこで昔よく飲んでいたコーヒー缶を見つけレジに並んだ。だけど、両替したばかりの日本円は万札しかなくて…。
ヨーロッパのチップ制度に惑わされたせいか、レジに並ぶ人々の群れに若干の焦りを覚え『釣りは要らない。』と、よく考えずそう言って足早にその場を離れた。
その時に彼女がレジにいた事は全く気付きもせず…
その後1か月つもの月日が流れた。
彼女が葉月心奈ではと思ったのは、お釣りを返したいと引き止められた時だった。
俺を止めようと必死で走って来た彼女が、はぁはぁと息を吐く息遣いに…なぜか懐かしさを感じ見つめてしまった。
乱れた前髪から覗く目を見た途端、ドキンと心拍が上がった。
まさか、こんなところで…地元でもない都会の真ん中で、彼女と再会出来るなんて、そんな奇跡は起こるはずがないと自分に言い聞かせ、速る気持ちを何とか抑えた。
黒縁メガネの奥の瞳は伏し目がちで元気がなく、俺の中の彼女の記憶とはかけ離れていたし、きっと他人の空似だと、自分を落ち着かせた。
それから毎日何となく、その子を2階から眺めるのが日課になった。
その頃になると、毎日一生懸命に走っているその姿に、感動すら覚えていた。
5月、6月と月日は経ち、俺は放課後に走る彼女を観るのが楽しみになった。その頃初めて彼女の名を知る。
葉月心奈。陸上部内の記録会の際に聞こえてきた顧問の声に、人知れず喜びで胸が震えた。
今まで誰かに執着する事がなかった俺が、彼女の事だけはなぜか気になってしまう。
いつだって精一杯頑張る彼女の真っ直ぐな眼差しに、気付けば恋をしていんだ…。
その後も何度か学校の階段や下駄箱ですれ違い、1人勝手にドキドキしていた。
それだけで良かった…。
どうせ俺は夏にはいなくなる。今更声をかけたところで何の意味もなさないだろう。
だけど留学まで後1か月を切った頃、信じられない奇跡が起こる。
その日も、放課後いつものようにピアノを弾きながら、陸上部の練習を観て過ごしていた。
ガラガラガラ…
ピアノを奏でてる最中に、不意に音楽室の扉が遠慮気味に開く音を聞く。
今まで廊下からキャーキャーと騒がれる事はあったが、入って来るような勇気のある奴はいなかったから、えっ⁉︎と思って振り返った。
「あっ…ごめんなさい。練習中にお邪魔して…」
こっそり入って来たつもりだったのか、彼女は申し訳なさそうに身を小さくしている。
そう、紛れもなくそこにいるのは葉月心奈その人だった。
それを認識した瞬間、ドキッと俺の心臓が高鳴った。
ピアノを弾く手を止め、ただ呆然と彼女を見つめる。驚きで気の利いた言葉さえ浮かんでこない。こんなチャンスなんてなかなか無いのに…。
「すいません…。あの、筆箱を忘れてしまって…どうぞ気にせず続けて下さい。」
彼女は申し訳なさそうにそう言って、筆箱を探しに近付いて来る。
「もしかして…これじゃないか?」
ピアノの上にあったピンクの可愛いキャラクターの筆箱を手に取り、彼女に掲げて見せると、
「そう、それです!」
パァッと笑顔になって、嬉しそうに近付いてくる彼女はキラキラと輝いていて…目が釘付けになった。
「…お邪魔しちゃってごめんなさい。ありがとうございます。」
両手を差し出してくる彼女の手に筆箱を置いた。この時の俺は手に汗を握るほど緊張していた。
ピアノの世界大会ですら緊張しなかったこの俺が…頭の片端でそう自分を叱咤する。
「いや…大丈夫。どうせただの暇潰しだから。」
俺は懸命に平静を装いそう言うと、彼女が驚きの目を向けて来る。
「私、クラッシックはあまり分からないんですが、毎日、先輩のピアノの音色に癒されています。凄くリラックス出来て部活でよい成績が出やすいんです。」
彼女の言葉に驚き、素直に嬉しくなった。
「グラウンドまで聞こえるんだ…。」
心とは裏腹に態度はどこまでも素っ気なくて、そんな自分に嫌気がさす。
「先輩の手って凄く綺麗ですね。指長くて、ピアノを弾く人の手ってこう言う手なんだ…。」
脈略無く彼女が突然そう言ってくるから、つい自分の手を見つめた。
「あっ、ごめんなさい。私、人の手見ちゃうクセがあって、気にしないで下さい。すいません失礼しました。」
やってしまったとばかりに、真っ赤になってパタパタと去って行ってしまった背中を、引き止める事も出来ず、ただ見送った。
それから残りわずかな高校生活が、俺にとってはかけがえのない時間になる。
彼女が聴いているかもと思えば、弾くピアノにも自然と気合いが入ったし、今まで弾く事もなかったJ-popなんかも弾いてみたりした。
色褪せていた俺の世界が、鮮やかに色を変えた。
ウィーンに渡ってからも、彼女の残像は色濃く残り、ふとした瞬間に浮かび上がった。街角でいる筈もない彼女の面影を探してしまう事まであった。
その後何年も経ち、それなりに遊びも覚え、後腐れない人と夜を共にする事もあったが…。
それでも彼女以外に心を揺さぶられる人に会う事はなかった。
そして、10年の月日が経ち日本に帰郷した。
この街を拠点にしたのは、ほんの偶然に過ぎない。そして、日本に到着したその足で彼女の働くコンビニへ足を運んだのも、ただの気まぐれだった。
そこで昔よく飲んでいたコーヒー缶を見つけレジに並んだ。だけど、両替したばかりの日本円は万札しかなくて…。
ヨーロッパのチップ制度に惑わされたせいか、レジに並ぶ人々の群れに若干の焦りを覚え『釣りは要らない。』と、よく考えずそう言って足早にその場を離れた。
その時に彼女がレジにいた事は全く気付きもせず…
その後1か月つもの月日が流れた。
彼女が葉月心奈ではと思ったのは、お釣りを返したいと引き止められた時だった。
俺を止めようと必死で走って来た彼女が、はぁはぁと息を吐く息遣いに…なぜか懐かしさを感じ見つめてしまった。
乱れた前髪から覗く目を見た途端、ドキンと心拍が上がった。
まさか、こんなところで…地元でもない都会の真ん中で、彼女と再会出来るなんて、そんな奇跡は起こるはずがないと自分に言い聞かせ、速る気持ちを何とか抑えた。
黒縁メガネの奥の瞳は伏し目がちで元気がなく、俺の中の彼女の記憶とはかけ離れていたし、きっと他人の空似だと、自分を落ち着かせた。



