求婚は突然に…       孤独なピアニストの執着愛

「気にするな、君が悪い訳じゃない。」
ぼそっと呟かれたその声に、パッと顔を上げる。
あっ…この人…あの、例のお釣りの人だ…
一瞬で何故だか分からないけどそう思う。

買ったものも前回と同じ缶コーヒー1つ。
着ている服は白いダウンコートだし、黒い手袋もしていないけど…

指がすらっと長くて、爪もコーテングされ綺麗に整っている。手入れの行き届いているこの手は…何の仕事をしてる人だろう…?

…すらっと伸びた背丈とモデル風の雰囲気。マスクに色付きのメガネをしているから、顔はよく分からない。

あの…っと声をかけたいけれど、声にならなくて、出されたお金を受け取りお釣りを差し出しのが精一杯だった。

どうしよう…行ってしまう…。
迷いに迷って声をかけられないまま、背中を見送ってしまう。

「…店長…あの人多分、お釣りの人です…。」
何故だか泣きそうになりながらそう店長に伝える。

「ここはいいから、ここちゃん追いかけて!!」
店長の言葉で背中を押されて走り出す。

「あ、あの…!お客様…。」
男性は既に出入口を通り過ぎ、駅とは反対に歩き出していた。

「お、お客様…お待ち下さい!」
精一杯声を張り上げる。

「待って、下さい…。」
お客様は自分の事だとはきっと分かっていなくて…走り寄って前に回る。

「あの、すいません…!」
ほんの少しの距離なのに、普段から運動不足の私は、はぁはぁと息を切らしてしまう。

「俺…ですか?」
何で止められたのか分からず、相手の男性は少し驚いている。

「あの…以前こちらの店で、お釣りを…置いて、いかれましたよね?」
整わない息で何とか伝える事が出来た。

「お釣り…?」
だけど、当の本人は記憶にないと言う風に首を傾げている。お釣りは要らないと言う事が多いのだろうか…?

「あの…雪の日に…先月です。朝早い時間帯で…」
頭がパニックで言葉が支離滅裂だけど…なんとか繋げ止めたくて一生懸命話す。

「ああ…帰国した日…。」
思い出してくれたみたいで、ホッとする。

「少し…お時間頂けますか?もし、急いでいるようなら、あの…時間のある時に、お店に来て頂けたら…」
こんな朝の忙しい時間に呼び止められて迷惑だろうと、早口で言葉を紡ぐ。

「釣りは要らないって言うのはだめなんですね。日本は律儀だな…。
俺は大丈夫ですけど、お店の方が大変ですよね。」

冷静にそう言われ、確かに…と思いながら、
「あの…もうすぐ交代の人が来る時間帯なので、あの…」
焦って言葉が出てこない。
なんせ、こんなイケメンと会話する機会そうそう無いし、緊張して来てしまう。

「待ってます。…そこで、これ飲んで。」
缶コーヒーを掲げて男性はそう言うけど、冬の朝は寒くて…こんな外で待たせる訳にはいかないと、咄嗟に頭を働かせて、

「あの、事務所で少しお待ち頂いても大丈夫ですか?…あと15分くらいで対応出来ると思いますので。」
呼び止めたにも関わらず、急いで戻らなくてはいけないし、待たせてしまう申し訳なさで、いろいろな感情が押し寄せて、私の頭はパニック寸前だった。

「ありがとう。じゃあ、そこで待たせてもらいます。俺は家に帰るだけだから慌てなくても大丈夫です。」

そう言う彼は、落ち着いたバリトンボイスで、波だった私の心をそっと落ち着かせてくれた。

コンビニに彼を連れて戻り、バックヤードから狭い事務所にと導く。二畳ほどしかないその部屋は、PCや電話などが置かれた机と、書類で一杯の棚が置かれ、後は小さなテーブルが1脚あるだけの雑念とした場所だった。

なんだかこの人にこの場所は不似合いだ。こんな場所に通して申し訳なさに頭が下がる。

「すいません…ちょっと散らかってますが。」
テーブルに雑多に置かれた書類を慌て片付けて、パイプ椅子を取り出し座ってもらうように促す。
背の高い彼は、長い足を窮屈そうに折り曲げて座る。

その姿を見て何故か一瞬、デジャブのような懐かしさが頭を掠めた…。

だけど今は早くレジに戻らなければと、気持ちばかりが焦って、そんな気持ちは気のせいだと払い除けた。

「いえ、大丈夫です。」
彼は穏やかな口調で、さっき買ったばかりの缶コーヒーを開けている。
私は机に置いてあった、スタッフの誰かが持って来た旅行のお土産の箱菓子を出す。

「これ、良かったら食べて下さい。」
それは小さな味噌饅頭だったけれど、今は構っている余裕も無く、

「すいません。15分ほどお待ち下さい。」
と、頭を下げて急いでレジに戻った。