「久瀬くん、今日は本当にありがとうございました」

ハイヤーで自宅マンションまで送ることにした久瀬くんを、私は玄関先で見送る。

「こちらこそ、お邪魔しました。ご両親によろしくお伝えください」
「はい、ありがとうございます」
「ではまた、月曜日に会社で」
「はい」

ずっとうつむいたままの私を、久瀬くんが身を屈めて覗き込んできた。

「あやめさん?」

え?と顔を上げると、心配そうな久瀬くんの顔がすぐそこにある。

「そんなに落ち込まれると、別れられないです」
「あの、私のことはどうぞお気になさらず」
「それほど実家暮らしに戻るのが嫌なんですか?」

私はそっと視線を上げてから小さく頷いた。

「どうしても嫌です」
「なるほど、やはり強情ですね。だけどあやめさん、俺も今回ばかりは助けてあげられません。俺が送り迎えを再開したとしても、あやめさんは夜一人で暗い部屋で眠るのを怖がっています。そんなあやめさんを放っておけません。どうかここで、ご家族やさちさんと一緒に安心して暮らしてください」

むっとしたままうつむいて黙っていると、久瀬くんはやれやれとばかりにため息をつく。

「駄々っ子みたいに口を尖らせてもダメですよ。こうするのがあやめさんの為にも一番いいんですから。ね?」

何度言われてもやっぱり頷けない。
黙り込む私に、久瀬くんは苦笑いを浮かべた。

「ほんとに筋金入りだな、このガンコ者のお嬢様は」

上目遣いにじっと睨むと、久瀬くんはクシャッと私の頭をなでた。

「あやめさん、少しだけ俺に時間をください」
「え?」
「実家を出たいんですよね?ご両親を納得させられる方法が一つだけあります」
「それは何?」

私はズイッと久瀬くんに歩み寄る。

「今は内緒です。それじゃあ、また」

そう言って久瀬くんはハイヤーに乗り込む。
私がポカンとしていると、みるみるうちに遠ざかってしまった。