あやめお嬢様はガンコ者

(うわ、何度見てもすごい)

お見合いの日にも来たが、あやめさんのご実家はとてつもなく大きなお屋敷だ。
そもそも門が一体どこからどこまであるのか、敷地はどこまでなのかも分からない。
高くそびえる門扉を見上げていると、アプローチの遥か先に見える大きな扉が開き、白いブラウスと紺のロングスカート姿の年配の女性が現れた。

「あやめお嬢様、お帰りなさいませ」
「ただいま、さちさん」

門扉を開ける女性に、あやめさんが笑顔で挨拶する。

「さちさん、こちらが久瀬さんです。久瀬くん、この人は私が子どもの頃からずっとお世話をしてくれているさちさんよ」

紹介されて、俺は頭を下げた。

「初めまして、久瀬と申します」
「まあまあ、初めまして。使用人のさちでございます。あやめお嬢様のお見合いのお相手が、こんなに素敵な方だなんて。お嬢様、さちは安心いたしましたよ。さあ、どうぞ中へお入りください。旦那様も奥様も、首を長くしてお待ちです」
「はい、失礼いたします」

門をくぐると両サイドに見事な庭園が広がるアプローチを抜け、ようやく玄関扉にたどり着く。
重厚な扉をさちさんが開けると、玄関ではなくリビングか?と思うようなゆったりとした空間が広がっていた。
大きなシャンデリアに豪華な生け花や絵画。
高級そうなソファにふかふかの絨毯。
そしてその奥には緩やかなカーブを描く階段が見えた。

「久瀬くん、どうぞ上がってください。父と母はリビングにいると思うの。こちらです」

あやめさんに促されて歩き出すと、一気に緊張感が高まってきた。
コンコンと、これまた立派なドアをあやめさんがノックする。

「お父様、お母様、あやめです」
「入りなさい」
「はい、失礼します」

中から聞こえてきた社長の声に、俺の緊張もマックスに達した。

「失礼いたします」

あやめさんがドアを開けると、俺は深々と頭を下げる。

「お休みの日にお邪魔しまして、大変申し訳ありません」
「構わんよ。さあ、どうぞ座って」
「はい、失礼いたします」

ようやく顔を上げると、ホテルのスイートルームのようなエレガントな雰囲気の部屋が広がっていた。
ソファやテーブルなど家具はどれもが上質で美しい。
思わず目を奪われていると、ラフな装いの社長の隣に、にこやかな笑みを浮かべた品の良いご婦人が並んで立っているのに気づいた。

「初めまして、ふたば製薬の久瀬と申します。いつも大変お世話になっております」
「まあ、初めまして。あやめの母です。いつも主人と娘がお世話になっております」

自己紹介する俺に、ゆったりと頭を下げてくれる。
だが俺は、これから話さなければならない内容を思い出し、思わず視線を落とした。
覚悟はしているけれど、あやめさんのご両親をひどく心配させ、怒らせてしまうことになる。
心苦しく申し訳ない思いだが、包み隠さず話して誠心誠意お詫びをするまでだ。
四人で席に着き、さちさんが紅茶とケーキをテーブルに置いてその場をあとにすると、俺はいよいよ意を決して話を始めた。

「本日は、お二人に大事なお話があって参りました。これからお話しすることは、夕べ起こった出来事です。あやめさんを大変危険な目に遭わせてしまいました。全てをお話しし、深くお詫びをさせていただきます」

するとお二人は、え?と顔を見合わせた。

「そうなのかい?私達はてっきり、あやめと久瀬くんが結婚を決めたのかと思っていたんだが」

今度は俺とあやめさんが、え?と顔を見合わせる。
そんな話はした覚えがないし、あやめさんも首をひねっていた。

「いや、だって。二人とも新事業の部長を一緒に引き受けてくれただろう?そのあともすっかり打ち解けた雰囲気で、あれこれと準備を進めてくれている。公私共に良いパートナーになってくれたなと、喜んでいたんだよ。なんだ、まだだったのか。では、今日の話とやらを聞こう。あやめは普段と変わらないように見えるけど、夕べ何があったんだ?」
「はい、順を追ってお話しします。久瀬くん、ひとまず私から話してもいいですか?」

あやめさんに聞かれて頷く。
俺も夕べあやめさんのもとに駆けつけるまでの事は何も知らなかった。

あやめさんはまず、お見合いの日の翌日、俺と電話で話している時にひとり暮らしであると伝えたこと。
心配した俺が、毎日あやめさんを会社まで送り迎えしていたことを話した。

「実家に戻るようにと久瀬くんに勧められたのですが、私が頑なに断り、久瀬くんはそんな私の為に一緒に通勤してくれました。さすがにずっとお願いする訳にもいかないので、もう結構ですと、昨日の夜から一人で帰ることにしたのです。マンションまでもうすぐというところで私は見知らぬ男の人に声をかけられ、会社の重要書類を渡すように言われました。なんとかあしらおうとしましたがしつこく言い寄られ、ノートパソコンを奪われそうになったところを、心配して様子を見に来てくれた久瀬くんが助けてくれたのです」

実際はもっと壮絶だったはずだが、あやめさんは極力穏やかに話をする。
ご両親は驚きつつも、真剣にあやめさんの話に耳を傾けていた。

「久瀬くんのおかげで、パソコンも会社の情報も無事でした。私もどこもケガなどしていません。久瀬くんがどうしても私の両親に話をしたいというので今日はご案内してきました。ですがこれだけは申し上げておきます。私を助けてくれたのは久瀬くんです。久瀬くんが駆けつけてくれたから私は無事だったのです」

きっぱり言い切ると、あやめさんは俺に目配せする。
俺も頷き返すと、居住まいを正して口を開いた。

「まずは私の大きな過ちからお話いたします。3か月程前から、私には気がかりなことがありました。ですがそれを重要視せず、部長にも社長にも報告せずにいました。そのことが夕べの出来事に繋がったのです」

俺はカフェで不審な男を見かけるようになったこと。
その男が、ライバル企業のMRだと気づいたこと。
我が社の社員の会話を盗み聞きしているように感じたこと。
それなのに、確証が持てないからと誰にも相談せずにいたことを話した。

「私がきちんと然るべき対処をしていれば、夕べあやめさんを危険な目に遭わせることはなかったのです。本当に申し訳ありませんでした」

深々と頭を下げると、あやめさんが横から手を伸ばして遮ろうとする。

「久瀬くん、頭を上げてください。久瀬くんが謝ることなんて何もありません」
「いいえ。あやめさんを不安にさせてはいけないと、あなたにすら話さなかったのです。それが結局は夕べの出来事に繋がった。不安どころか、あなたをもっともっと恐ろしい目に遭わせてしまったのです。あやめさん、本当に申し訳ありませんでした」
「違います。どうして久瀬くんが謝るの?本当に悪いのはあなたではないはずです」

その時「お前の言う通りだよ、あやめ」と社長の声がした。

「久瀬くん、とにかく顔を上げなさい」
「はい」

俺はゆっくりと顔を上げる。
社長はいつもと変わらない落ち着いた表情で切り出した。

「事情は分かった。確かに久瀬くんが違和感を感じた時点で私に相談してくれていたら、事態は変わっていたかもしれない。けれどもし相談を受けていたとしても私は、その程度の違和感なら様子を見るしかない、と答えていたと思う。結果、同じ事態を招いただろう。そもそも、たった一度病院で見かけただけの男を記憶しているなんて、優秀な久瀬くんだからだよ。普通なら覚えていない。という訳で、久瀬くんの落ち度はない。いいね?」

穏やかな口調ながらも有無を言わさぬ雰囲気の社長に、俺は何も言葉が出て来ない。

「久瀬くんについては以上だ。謝罪などする必要はない。さて、久瀬くん。ここからが本題だ。君の力を貸して欲しい」

え?と俺は思わず正面から社長を見つめた。

「夕べあやめに我が社の情報を渡せと迫った男についてだ。私は、出来ることなら事を荒立てたくはない。だが社会的制裁は必要だと考える。君はどう思う?」
「はい、私も同じ考えです。犯人はあやめさんが社長令嬢だと知っていながら接触してきました。あやめさんに対しての脅し文句は立派な脅迫罪に当たります。恐喝未遂罪にも問えるかもしれません。即刻警察に通報するべきだと思います」

隣であやめさんがハッとしたように視線を向けるが、俺の意志は変わらない。
あんな酷いことをする犯人を野放しにしていい訳がないし、いつまたあやめさんに近づいて来るかも分からない。
早く捕まえてもらわなければ。
警察に通報すれば、あやめさんは思い出したくないことまで細かく事情聴取されるだろう。
だが俺はずっとそばにつき添い、あやめさんを支える覚悟だ。
もう二度と、あやめさんに怖い思いなどさせない。

じっと真剣に社長と向き合っていると、やがて社長は大きく頷いた。

「分かった、通報しよう。その前に私からその犯人の勤める会社に連絡を入れる。久瀬くん、どこの会社か教えてくれるかい?それからその男の特徴と、見かけたという総合病院の名前も」
「はい」

俺は知りうる限りの犯人の情報を社長に伝えた。

「ありがとう。すぐに秘書に連絡を取らせるよ。あとのことは私に任せて欲しい。それから、あやめ。お前は今後警察に呼ばれて事情を聞かれると思う。大丈夫か?」

あやめさんはじっとうつむいていたが、意を決したようにギュッと両手を握りしめて顔を上げる。

「はい、大丈夫です。警察で全てをお話しします」
「そうか、分かった」

俺はそっと手を伸ばし、テーブルの下のあやめさんの手を上から包み込んだ。
あやめさんが俺の顔を見上げる。
大丈夫だというように、俺はあやめさんに頷いてみせた。