うちの学校の七不思議には、八個目が存在するらしい。


放課後、最終下校の鐘が鳴る十八時。
三階、西側の階段、そこにある大鏡は時間になると異界へと繋がる扉になるという。


嘘か本当かなんて、分かりきっている。皆にとってそこの真偽はさほど重要じゃない。

学校の怪談なんていうものは、退屈な学校生活を少しでも豊かにするためのスパイスのようなものだから。


でも、私にとっては結構重要なのだ。
切に願うほどに。





ところで私の中学はフロアが学年ごとに分かれている。
一年生は一階。二年生は二階、と学年が上がるごとに、フロアも上へと変わっていく。


そして学校のルールとして、それぞれのフロアには行き来しないようにと決められているのだ。


まあ恐らく揉め事が起こらないようにするための対策のようで、学生たちは私を含め、そのルールを厳格に守っているように思う。


そもそも上履きの色やネクタイの色が学年ごとに違うので、すぐに気づかれてしまうのだ。

生徒指導部の先生に見つかると、拘束時間がやたらと長いので、皆やらない。まあ誰だって怒られたくないからね。


それに私がこの学校に入学したのが今年の春で、まだ半年しか経っていない。そんな風に悪目立ちして、もし怖い先輩に目をつけられたりでもしたら、残りの学生生活は最悪になる。


だから二階にある職員室や図書室、授業で使う教室を除いて、他のフロアへ行くことはまずしない。自己保身のために。


西側三階の大鏡の噂は、バドミントン部の三年生の先輩から教えてもらった。ホントか嘘か、代々後輩へと教えることになっているらしい。

「三年生になったら行ってみるといいよ」なんて悪い顔をして先輩は言った。


異界に繋がる……。


たったそれだけだったら私の心は動かなかったかもしれない。学校の怪談としてよくありそうな類のもので、オカルト好きでもない限り、ふーんくらいの感想しかわかなかっただろうと思う。


しかしその噂には続きがあった。


異界には案内役がいて、十八時の鐘が鳴ると大鏡から出てきて腕を引っ張ってくるのだという。
そして、その異界というのは死者が暮らす世界。


死んだものたちが、構成する世界らしい。


もしかすると私の幼なじみもそこに居るかもしれない。
私のせいで亡くなった、サクマくんが。


私はその子に会いたかった。


会えるなら、会って謝りたい。
許してもらえるかどうかなんて、分からないけれど
一言謝りたい。


私の心が動いたのは、サクマくんに会えるかもしれないという、その一点だった。



あの日のことは、一生忘れられない。生涯、私の身に幸福が訪れた時、脳裏にその日のことが蘇るだろう。





小学校4年生になった私とサクマくんは、どちらも両親が共働きで、所謂鍵っ子といったものだった。


放課後は何となくいつも一緒にいた。家に帰って鞄だけ下ろすと、いつもの場所で待ち合わせる。


その日は、私の両親が早く帰ってくるというので、家で遊ぼうと誘ったのだ。


何となく、サクマくんに自分の両親を自慢したい気持ちがあったのかもしれない。

いつも帰りの遅いサクマくんの両親と違って、私のお父さんとお母さんは時々ケーキなんかをお土産に持って、早く帰ってきてくれるから。


そんな無邪気さゆえの鋭利な心も、今となってはどす黒い血の塊のような、忌むべきものになっているのだけれど。


その日私は「鞄置いたらすぐ来てね!早く来て一緒にうちで遊ぼう!」とサクマくんに念を押した。

何度もしつこく急かす私に「分かった分かったよ、シュウちゃん。すぐ行くから」と困り眉で笑って彼は答えた。


今思えば、サクマくんは私の濁った心の中にも気づいていたのかもしれない。彼は、結構、大人だったから。
でもその真意も、もう聞けないのだ。

鏡に聞いても誰も答えてくれない。


そして家の玄関でいつ来てくれるのかと、サクマくんを待っていた私。彼はいつまで経っても来なかった。もう太陽が夕日に変わり、窓から痛いくらいに差し込んできていた。


真っ赤な夕日が沈んでも、父も母も帰ってきても、彼が家に来ることは無かった。
玄関で蹲って待つ自分の膝の頭を、もうずっと覚えている。



交通事故だった。


死角の多い十字路で、サクマくんは車に撥ねられ、命を落とした。

「突然、この子が飛び出してきたんだ」と運転手は言ったらしい。

私がそのことを聞いたのは、翌日学校に登校した時だった。急かしたせいで、サクマくんは走って来てくれたんだと私だけが気づいていた。


その真実を誰にも話せずに、私は生きてきた。
これからも、ひとりこの真実に懺悔しながら生きていくのだろう。


つまり、その西側三階の大鏡の噂をただのオカルトとして聞き流せなかったのにはそういう訳がある。
一目会って謝りたい。


いやこれは綺麗事だ。正直なところ、会って謝れたら、少しはこの心の底に溜まった泥を濾過できるんじゃないかと思わずにはいられなかったのだ。


その噂を聞いてから、私は何度も十八時の鐘を聞いた。
西側一階の廊下から階段を仰ぎみて、本当に会えるのだろうかと悶々とする。


そもそも、誰かに見つかったら間違いなく咎められる。変な目立ち方はしたくない。


もし、異界へと行くことが出来ても、サクマくんに会えなかったらどうしよう、などと辛気臭く考えていた。


そしてとうとう四回目、やっと西側二階へと続く階段を登った。


十八時の五分前だった。自分の靴音だけがやたら響く。普段この階段は使わない。職員室も図書室も南側の階段を使用することになっているので、その背徳感も私の肩にずっしりとのしかかる。


挙動不審に辺りを見渡すが、二階には誰も居ないようだった。職員室もあるし、誰かひとりは居るはずなのだが、人の気配がない。自分の呼吸も聞こえてくるくらいに静まり返っている。


不気味だった。真っ赤に差し込んだ夕日が、あの日みたいで後ろを振り返るのさえ怖かった。


三階の階段を見上げる。
ここから何故か階段の色が木目調に変わっている。


旧校舎がくっついたみたいな違和感のある階段の一段目に足を乗せると、ぎぃーっと歯ぎしりのような音がした。


一段、一段、踏みしめて登ると、踊り場に大鏡が見えた。木枠で囲まれた立派な出で立ちの大鏡だった。


その時、十八時の鐘が鳴る。


私は特に変わりのない大鏡の前に立ち、目の前の自分に向けてすっと手を伸ばした。なんの儀式も、文言もなく、ただ手を前にだす。


陽が完全に暮れ、あたりは薄暗い。
鏡越しの自分もぼやけもうよく見えなかった。


鐘が鳴り終わる頃、鏡が歪んだように感じた。
向こう側から青白い手がにゅっと突き出てきて、私の手首を掴んだ。


ひゅっと息を飲み、片方の手で口を抑える。


『ダメだよシュウちゃんこんなことしたら』


鏡には私ではない人影が、揺らめいていた。その人影に手首を掴まれている。
それを私は直感的にサクマくんだと思った。


『こっちに来るにはまだ早いでしょ』

鏡から声がする。

「サクマくん?」

『ごめんね、シュウちゃんの家までたどり着けなかった』

「それは私が急がせたから……ごめん」


ぼんやりとした影からは表情を読み取るのは困難だったけれど、掴まれていた手首を労わるようにさすって


『え、なんでシュウちゃんが謝るの?』


と鏡が言う。


「だって、私があんなこと言わなかったら……」


俯く私にサクマくんは何も言わなかった。
沈黙の後、顔を上げた私の目の前には真っ黒に染った鏡があった。何色も色を混ぜて作ったような黒だった。


『……そうだね。あんなこと言わなかったら僕は死なずにすんだ』


ぐにゃりと鏡が歪む。掴まれている手首が痛い。爪がくい込み、私の手が冷たくなっていくのを感じる。
本能的に手を引こうとするがビクともしない。



『シュウちゃんが殺したようなものだもんね。こっちはとっても寒いんだ、そうだシュウちゃんもこっちに来てよ』


私は怖くなった。たぶん、これはサクマくんじゃない。
そう思いたいだけかもしれないが、ここにきて私は正気に戻った。死んだ人は戻ってこないし、会えもしない。


聞きたいことは聞けないし、時は巻き戻ったりしない。それでも私は生きていくしかないのだ。



引きずり込まれそうになる身体をどうにか踏ん張って耐える。大声で叫んでみるが、全ての音がこの鏡の向こうに吸い込まれているような気がした。

このままでは、異界へと連れていかれてしまう。
上履きがキュルキュルと引きずられていく。


頭がぬっと、鏡にめり込む。クラっとして魂が抜けるような軽くなるような不思議な感覚が襲う。


「シュウ?」


後ろから声が聞こえ、私はっとする。そして掴んでいた手が一瞬にして消滅した。

その反動で床にお尻を強く打ちつける。ジンジンと痛むお尻をさすって、どうにか紛らわそうと頑張った。

そうやって痛がる私を、鏡がそのまま映し出していた。
鏡はすっかり元の姿に戻っている。


「え!? 大丈夫?シュウ! こんなとこで何やってんのさ!」


声をかけてくれたのは、大鏡の噂を教えてくれたバドミントン部の先輩だった。


「ここにいるの先生にバレたら、うるさいよー?
なに、あの鏡の噂信じてここに来たのー?」


「い、いえ、別に……」


「馬鹿だねぇ。あれ嘘だよ〜」



先輩はいつものようにケタケタと笑いながら、私の腕をぐっと引き上げて立たせてくれた。

う、嘘なの? じゃあさっきのあれは何なのだろうか。
私の頭がおかしくなったのだろうか、幻覚?


混乱していると、またも先輩がぷっと吹き出す。


「もーちょっと大丈夫?? 」


先輩は私の手を引いて一階へと降りていく。
まるで案内人みたいに「さあ、こっちこっち〜」と軽い足取りで、冷たい手が私を先導していく。




─────END.