たとえ世界に誰もいなくなっても、きみの音だけは 忘れない

 日暮れが近づくにつれて、詩音はそわそわと落ち着きをなくし始めた。彼女が何を気にしているのか分からず、蓮は首をかしげる。

「詩音ちゃん、何かあった?」

 蓮の言葉に、詩音は唇を噛んでうつむく。

「怖いの。眠ったらきっと、次は蓮くんのことも忘れちゃう。せめて明日のコンクールまでは、覚えていたかったのに」

 握りしめた手は震えている。そんな詩音の手を、雛子が包み込んだ。

「じゃあ、起きてよう。あたし付き合うからさ、明日の蓮の本番まで、ずっと寝ずに起きてようよ」

「ひなちゃん……」

「蓮の出番は4番目でしょう。10時開始だから、10時半くらいかな? 苦いコーヒー買ってきてさ、めちゃくちゃ辛いミント食べて、あたしと詩音の思い出をいっぱい語ろう」

 十年以上の思い出は、一晩じゃ語り尽くせないけどと雛子が笑う。
 滲んだ涙を拭ってこくりとうなずいた詩音に、雛子もうなずいた。

「蓮は、早く帰ってゆっくり休みなね。明日は本番なんだから。詩音のために、最高に素敵な音で弾いてくれるんでしょ?」

「う、うん。頑張る」

 蓮も一緒に夜を過ごすことがよぎったものの、さすがに泊まり込みは色々と問題があるだろう。詩音のために弾くと宣言した手前、コンディションを整えることも大事だ。

「蓮くん。私、ちゃんと覚えておくから。絶対に寝ない」

 決意を込めた黒い瞳が、まっすぐに蓮を見上げる。
 約束、と差し出された指に、蓮はしっかりと自身の小指を絡めた。