頭の中が真っ白になるというのはこういう事。
 何を言っているのか理解できなかった。
 偽りの恋人関係──その言葉は何を示すのか、萌絵には想像すらつかない。

 もしかしたら聞き間違いかも。
 いや、そんな事はない、しっかりと脳裏に刻まれているのだから。
 鼓動が激しいリズムを刻む中、萌絵は重たい口をゆっくりと開いた。

「前原さん……。それってどういう意味なの? 姫と鈴木誠也が偽りの恋人関係って……」

 きっと聞いてはいけない事だとは思っていた。
 だけど聞かずにはいられなかった。
 なぜなら……偽りという言葉がそのままの意味なら、誠也と付き合えるチャンスがあると考えたからだ。

「えっ、あっ……。そ、それは……」

 込み上げてきた怒りに身を任せ吐き出した言葉。
 口を滑らせたとも言うが、誠也と瑞希の関係が偽りだと漏らしてしまう。

 冗談──今さらそんな事を言える雰囲気ではないのは分かっているが、ここは強引にでも冗談だと押し通そうと瑠香は考えた。

「じ、冗談だよ、冗談。そんなのあるわけないじゃない。そうだよね、西園寺さんっ?」

 瑞希を巻き込む事で、瑠香は信ぴょう性を上げようとする。
 憧れの存在から冗談と言われれば、萌絵が疑う事はないだろう。
 罪悪感がないと言えば嘘になるが、こうでもしないと取り返しがつかなくなると思っていた。

「えっ……。そ、それは……」

 すぐに偽りだと言えなかった瑞希。
 もしその言葉を口にしてしまえば、それが真実となりそうで恐怖を感じる。

 どう答えればいいのか。
 ここで否定すれば、きっとあっという間に広がるのは間違いない。そうなれば告白地獄が待ち受けているだけ。

 違う、そうではない。そんな事など今の瑞希にとってはどうでもいい。
 誠也を失うのが怖くてたまらない──それだけなのだから。

「もぅ、いいわよ。萌絵、アナタになら真実をお話するわ。だけど、他言無用でお願いね?」
「う、うん……」
「前原さんの言った事は事実よ。だけど勘違いしないで欲しいの、これは、その……私は別に今の関係でも悪くないと思ってるの」

 誠也にだけしか見せた事のない顔が表に出てきてしまう。
 ほんのり赤く染った頬、少しうつむいた姿は氷姫とはほど遠かった。

 恋する乙の顔女──それに気づいたのは瑠香だった。
 自分と同じ表情であるからこそ確信する。
 偽りだけど偽りではない、この言葉は口に出せないもの。
 瑞希と真っ向勝負などしたら敗北するのは目に見えている。

 心に突き刺さる痛みを覚え、瑠香はその言葉を心の奥へとしまい込んだ。

「そっか、分かったよ、姫。本当の事を話してくれて、あたしは嬉しいよ」

 その嬉しさは瑞希が真実を話してくれたからではない。
 遠慮せず誠也に近づけるという嬉しさだ。

 これで苦しまなくて済む。
 誠也と瑞希の関係は偽りなのだから、悩む必要なんてまったくない。
 瑞希が言った最後の言葉の意味を深く考えず、萌絵の心は爽快すぎるほど晴れやかであった。

「ありがと、萌絵」
「その……西園寺さん、ごめんなさい。私が約束を破っちゃったから……」
「謝らなくていいのよ、前原さん。いずれこうなる事は分かっていたもの。それが今日だったにすぎないだけですから」

 いつかはこうなると覚悟はしていた。
 だが偽りだと認めたのは諦めたからではない。
 自分を追い詰めることで引けない状況を作った。

 そう、これは宣戦布告。誠也を誰にも渡さない覚悟の現れ。
 薄々と気づいていた瑠香の誠也への想い。
 だからこそ、許した上で正々堂々と勝負をしようとしていた。

「さっ、湿っぽい話はこれでおしまいよ。今日は私の誕生日なのですから、ちゃんと祝ってよねっ」

 瑞希のひと言で気持ちを切り替える誠也達。
 誕生日パーティーの再開ということで、テーブルに色とりどりの料理が並べられる。
 中央には誕生日ケーキが置かれ、歳の数だけローソクを立てた。

 1本ずつ点火されていくローソク達。
 その役目は誠也が代表する。
 すべてのローソクに火が灯り部屋の電気を消すと、誕生日の歌でパーティーが始まった。

「「お誕生日おめでとうー」」

 揃ったお祝いの言葉に瑞希の思わず瞳が潤みだす。
 いつ以来だろう、こうして誕生日を祝ってもらえるのは。
 記憶の中で一番古いのは、瑞希がまだ幼いころのとき。

 微かに覚えている両親の笑顔。
 何をプレゼントされたかなどは覚えていない。
 ただ一つだけ言える事は、あの頃はいつも笑っていたということだけ。

 それが今や笑う事を忘れた氷姫となっている。
 唯一笑顔を見せるのは誠也だけ。それ以外の人には絶対に見せなかった。

「ありがと。こんなに嬉しい誕生日は……久しぶりよ」

 瑞希の口元から笑みがこぼれたように見える。
 ここには誠也以外の瑠香や萌絵がいるのにだ。

 ほんの少しだけだが、確実に笑っていたはず。
 薄暗い部屋だから見間違え──そう言われればそうかもしれないが、真相は本人にも分からず闇の中へと葬り去られた。

「先にプレゼントを渡そっか。その方がゆっくり出来るでしょ」
「誠也のクセに気が利くじゃない?」
「『クセに』は余計だよ。それじゃ渡す順番は──」
「あたしが一番最初で、次に前原さん、最後が鈴木誠也でどう?」
「瑠香がいいならそれでいいかな」
「私はそれでいいよっ」

 渡す順番もあっさり決まり、トップバッターの萌絵が憧れの瑞希へプレゼントを渡そうとする。

 喜んでくれるのか、内心はかなりドキドキしている。
 いくら親衛隊とはいえ、瑞希の心までは読めるわけもなく、何を渡せば喜んでくれるかなど分かるはずがない。

 緊張の一瞬──萌絵は震える手で瑞希にプレゼントを渡そうとした。

「ひ、姫、これ、あたしからのプレゼントです」
「ありがと、萌絵。さっそく開けていいかしら?」
「もちろんだよっ」

 心臓が今にも飛び出しそう。
 それこそ、誠也に告白するのと同じくらい。
 いや、実際には告白はしていないが、あくまでも仮定の話。
 それくらいの緊張が萌絵を襲っていた。

「これは……。嬉しいわ、私、欲しかったのよ。萌絵、ありがと」

 萌絵がプレゼントしたもの、それは……花柄のポーチ。
 きっと持っていないだろうと思い、瑞希に一番似合いそうなのを選んだのだ。

「喜んでくれて嬉しい……」

 歓喜のあまり萌絵の瞳に光るものが見える。
 推しに喜んでもらえる事ほど幸せなものはない。
 緊張から解放され、萌絵から力が抜けその場に座り込んでしまった。

「それじゃ次は私ね。はいっ、西園寺さん、誕生日おめでとう」
「まさか嫌がらせのプレゼントとかないわよね?」
「いくら私だってそんな事しないからっ」

 冗談なのか本気なのか分からない瑞希の発言。
 少なくとも楽しんでいるのは確か。
 そこには氷姫の姿は一切なく、ひとりの少女が笑みをこぼしていた。

「もぅ、はいっ、そんな大層なモノじゃないけど、大切に使ってよねっ」
「ありがと、前原さん、ステキなボールペンだわ。あら、何か書いてあるわね。これは……」

 瑞希の名前がローマ字で書かれたボールペン、それは世界に一つだけのオリジナルだ。シンプルでありながら心に響くプレゼント。思わず涙がこぼれそうになるも、瑞希はなんとか堪え瑠香に感謝した。

「嬉しいわ、使うのが勿体ないくらいよ」
「喜んでくれて良かった。最後は誠也だねっ」

 自信があるかないかと言われればある。
 そもそも女の子にプレゼントなど、瑠香以外にあげたことはない。
 緊張の波が遅れてやってくると、誠也の心は落ち着きがなくなってしまった。

「僕からのプレゼントはこれだよ。瑞希なら似合うと思って」
「イヤリングなんていいわね」
「ノンホールだから簡単につけられるよ。それに……ほら、瑞希の誕生石ってサファイアでしょ? だから同じ色にしてみたんだ」
「嬉しい、嬉しいわよ、誠也」

 歓喜のあまり瑞希は我を忘れて誠也に抱きつく。
 あまりにも突然の出来事で、誠也はもちろん、瑠香や萌絵も固まっていた。

「ち、ちょっと、なんで誠也に抱きつくのよっ。いくら偽りの恋人だからってやりすぎでしょ」
「姫、そんな無理にしなくても……」
「あら、嬉しいから行動したに決まってますわ」

 悪魔の顔で瑠香と萌絵の言葉を一蹴し、瑞希は誠也の温もりをひとりで堪能する。

 もちろん、瑞希に対して言いたい事は山ほどあるが、今日の主役に難癖などつけたくはない。瑠香は悔しさを、萌絵は羨ましさを抱きながら、ふたりのハグを静かに見守るしかなかった。