「それじゃ、お先に失礼します」
 そう言って、向かいの席の真田さんが、仕事を早退した。
 真田さんは、最近、ゆるいパーマをかけて、とてもよく似合っていた。そうはっきりはわからないけれど、控えめにメイクも変えていると思う。
 真田さんがフロアから出て行くのを見送ってから、隣の芦田さんが、紗枝に言った。
「ね。最近、真田さんきれいになったよね」
 紗枝は、そうだね、と頷いた。芦田さんは続けた。
「私、聞いたんだ。来月、結婚するらしいよ。今日も、結婚式関連で早退だって、いいなあ」
 紗枝は、ぐっと胸を衝かれた気がした。結婚というワードに今日は触れたくなかった。
「うん。うらやましいね」
 言葉に棘がないように、注意して言った。
 結婚についての黒い思いは、すぐに噂の種になってしまう。この女性ばかりのコールセンターという職場には、そういうよくない流れが確かに存在していた。
 基本的に仕事中私語は禁止だけれど、入電のない時間は、こそこそとおしゃべりをする。芦田さんもどちらかというと噂好きなので、紗枝はあまり自分のことを話さないようにしていた。
 特に、彼氏のこと、といった皆が乗り出してきそうな話題は特に。
 しきりにいいなあ、と言っている芦田さんに、紗枝は話の矛先を変える材料はないか探した。
 そこで、思い出した。昨日焼いたクッキーを芦田さんと前橋さんに渡そうと思って持ってきていたのだ。
「芦田さん、ごめん。また焼いたんだ、よかったらもらってくれる?」
「え、ひょっとして、紗枝ちゃんの手作り?今日は何?」
「クッキー。ココアが入ってるのと、ナッツが入ってるの」
 そっと芦田さんのキーボードの傍にラッピングしてある小さな袋を置いた。透明な袋なので、中身が透けて見える。
「うわ。美味しそ。紗枝ちゃんの作るやつ、マジ美味しいよね。最初、もらった時、お店のかと思ったもん」
「ありがと。そう言ってもらえると、持ってきやすい」
「早速、いただくね。うわっ、さくほろで激うま…!」
 芦田さんのこういう素直なところには、癒されるなあ、と紗枝は薄く笑った。
「そう言えば、前橋さんは、遅番かと思ったけど違うんだね」
 芦田さんと、前橋さんとは、三人で一緒にランチをよく食べる。なので、手作りお菓子もいつも二つラッピングして持ってきていた。でも、今日は姿が見えない。
「うん。なんか、法事がある、とか言ってたよ。お休みだよ」
「そっか。じゃ前橋さんには、明日渡そうかな」
「紗枝ちゃん、このコールセンターの終わった後、カフェでも働いてるんでしょ。そんなに時間ないのに、クッキー焼くなんて、マジ尊敬するんですけど」
「うーん、気分転換なるっていうか。つい作りすぎちゃって」
 子供の時に母から言われた。つらい時は、手を動かしなさい。そうしたら、気持ちが落ち着いていくから。
 中学生の頃。紗枝は、最初は半信半疑だったが、テストで悪い点を取った時、うちにあったお菓子の作り方の本を見ながら、パウンドケーキを作ってみた。慣れていなくて台所は粉だらけになったが、焼きあがったケーキを見たとき、たしかに落ち込んでいた気持ちはどこかへ行っていた。
 以来、落ち込んだり嫌なことがあったらお菓子を焼く、というのが紗枝の習慣となった。
 昨日の夜も、できるだけ手のこんだ、難しいレシピのクッキーに挑戦していたら、へこんでいた気持ちが少しだけマシになった。とりあえず、今日、仕事に来れるくらいには。
 コールセンターの終業時間となり、紗枝は帰路についた。
 紗枝は、自分の部屋に帰りたくなくて、少し街をぶらつくことにした。コールセンターには契約社員として働いていて、正社員になるための試験を受けられるのは、入社して二年後と決められている。
 コールセンターに勤めてまだ一年なので、一人暮らしを支えるほどの給料はもらえず、週4回、カフェのバイトをして、なんとか生活を回している。
 すれ違った女性から、ふわっと香水の匂いがした。甘くて、いい香りだ。来月結婚するという真田さんがつけていたのに似ている。真田さんの、満たされた風な笑顔や、いいなあ、とうらやましがる芦田さんの顔が頭の中に浮かぶ。

 先週までは、私、真田さんみたいに自分もうらやましがられると思ってた…

話は、二日前の土曜日にさかのぼる。
 紗枝は、つきあって半年になる、務に呼び出されていた。務とはバイト先のカフェで出会った。務は、24才の紗枝より6つ上の30才。カフェの厨房で料理人として働いている。紗枝は、ぼんやり手があいているのが嫌で、率先して皿洗いなどもよくやった。そのせいか、いつのまにか務とも話すことが多くなり、務の方から告白された。気さくな務に紗枝もまた惹かれていたので、滑らかに交際は始まった。とはいえ、二人とも仕事に忙しく、仕事終わりに話し込んだり、なんとか時間を合わせてたまに食事に行ったりする。そんなつきあいだった。
 嬉しいことに、務は男子にしては、甘党で、紗枝の作る焼き菓子も喜んで食べてくれた。務は料理人だが、お菓子は紗枝に敵わないな、といつも笑った。
 自然と、二人で店をやる夢を語り合うようになった。料理は務が作り、紗枝がデザートを作る。そんな小さな店を、やっていけたら。
 店の計画を立てる時の、その楽しさは普段の生活の微妙につらいことを忘れさせてくれた。いつしか、紗枝は務と人生を共にすることを、当たり前のように思っていた。
 だから、珍しく務が土曜日の午後に話がある、と紗枝を呼び出したとき、紗枝は
 ひょっとして、プロポーズされるかも…
 と思ってしまった。紗枝はよそ行き用に大事にとってあるワンピースを着て行った。呼び出されたのは行きつけの喫茶店で、コーヒーが美味しい店だ。いつか店をやるとき、こんな味のコーヒーが出したいね、と語り合ったこともあった。
 なので、なおさら、やっぱりプロポーズ?と期待してしまう。
 務は、紗枝よりも先に喫茶店に来ていて、コーヒーを飲んでいた。務、と声をかけて、向かいの席に座ると、務の顔が微妙に暗い。
 あれ、もしかして、なんか相談ごととかかな…
 てっきり結婚の話だとふんでいた自分が恥ずかしくなった。紗枝が店のウエイトレスにコーヒーを注文した後、ゆっくり、務が顔をあげた。そして言った。
「ごめん、彼女に子供ができた」
紗枝は一瞬、何を言われたか、わからなかった。
 カノジョ。務の彼女は私では、ないの?
 それに子供?務とその彼女はそういう関係なの?
 質問が矢継ぎ早に出てくるが、言葉にならない。
「相手は、誰?」
 私の知ってる人だろうか。だったら嫌だ、と瞬間的に思った。
「うん。店に来ている短大生のまなちゃん。彼女、酒がつよくてさ。俺が非番の時、よく一緒に飲みに行ってて…なんとなくそういう関係になって…先週、休憩室で具合悪いって言うから、どうした、って聞いたら…妊娠してるって言われて」
「…務の、子なの?」
「ああ、俺以外とはやってないって。…紗枝には悪いけど、子供ができたって聞いて、俺、うれしくなっちゃってさ、まなちゃんにプロポーズして、来月にでも籍入れようって言ってんだ」
「プロポーズ…」
 紗枝は一気に体の力が抜けた。人目があるので、言いたいことが言えない。いや、人目がなくても、ショックで言葉が出なかったかもしれない。
「…私は、務といつか結婚して一緒に暮らすんだと思ってた。一緒に店やろうって言ってたし…」
 ぽつりぽつりと、紗枝が言った。
 何から話せればいいかわからず、それだけを絞りだした。
「それなんだけど」
 務は、自分が悪いとは全く思っていない風に切り出した。