それは、誰かの夢だった。
遥か頭上から降り注ぐ太陽の光。突き抜けるような青天井。肌を刺すような灼熱のグラウンド。太陽で熱された地面から陽炎が立ち上る。場内で鳴り響く吹奏楽の応援曲も、観客の声援も、蝉の鳴き声も、すべてがどこか遠い国の出来事のように感じる。
青年は、ピッチャーズマウンドの上に立っていた。額から流れる汗をユニフォームの袖口で拭い、野球帽をかぶり直す。何度かキャッチャーに向け首を横に振った後、彼はようやく頷いた。
左足を挙げて、大きく振りかぶる。そして、彼の指先からボールが放たれる寸前──それは、起こった。
彼は、初め理解できなかった。
(なんで今、俺は膝をついてる?)
流れる汗が、地面に滴り落ち、黒い斑点を作る。投げたはずのボールが、ものの1メートル先に転がっていた。そうだ。投げる瞬間に右肩から首筋にかけて、落雷を受けたような衝撃があった。押さえた肩は焼けるような痛みが断続的に続く。
痛みによるせいか、暑さによるものか。意識が朦朧とする中、ベンチから数人が駆けてくるのが見えた。
(──なんで。どうして、今なんだ)
体中の力が抜けて、そのまま地面に倒れこんだ。
(クソ、クソ、クソッ!)
そばに転がる野球ボールが、ぼやけた視界に映った。震える指で砂を握りめて、青年は固く目を瞑った。
(今までの全部──無駄だったって言うのかよ!)
「残念ですが、今の状態で試合に出場することは難しいと思います。リハビリをしても、果たしてどこまで回復するか……」
──暗転。
「高坂、お前はよく頑張った。その頑張りを俺は誰よりも知ってる。今はそんな根詰める時じゃない。ゆっくり休むんだ」
──暗転。
「いつでも戻ってこい! 俺たちはお前が帰ってくんの待ってるから」
──暗転。
「ハル、ご飯くらいはちゃんと食べなさい。お医者様も言ってたでしょ、まずはちゃんとご飯を食べて……」
──暗転。
青年は、野球ボールを左手に掴み、ただ窓の外を眺めている。
(……もう、どうでもいい。何もかも)
深海よりも深く沈んだ心が映す世界は、何もかもがくすんだ灰色だ。立ち上がる気力は、もはや一欠片もない。涙もとっくの昔に枯れてしまった。無気力だけが青年を支配していた。膝を抱え込んで、たった一人だけの世界に閉じこもる。その時だった。
「──おいハル! 今から出かけるぞ!」
唐突にドアが開いた。青年は力なく顔を上げた。
「……兄貴」
「ほら、立て! 行くぞ!」
青年が口を開く前に、突然の来訪者は彼の手を強く引き部屋の外へ。
青年は、地面を見つめていた。
兄に促されるようにして背中を叩かれて、ハッと顔を上げた。
ライブハウスの箱庭には、ひしめき合う人の数だけ酸素が薄く、動いていなくても自然と呼吸が上がっていく。立ち込めた熱気が一番後方にいるのに伝わってくる。
ステージライトが観客席を照らした時、会場中に割れんばかりの拍手と喝采に沸く。ギターボーカルがスタンドマイクを握った。ステージを見上げる誰もが、彼らの魅せる世界を心待ちにしている──
「俺、19んときに音楽やりたくて大学辞めました。親も友達もみんなお前になんかできねえ、できねえってさんざん言われました。そん時に何回も聞いた曲です。できないかもしれない、何回も諦めようとした。でも、俺は、俺だけはできるって信じてやんだ。俺にしかできない音楽があるって、信じてやんだ! 上手い演奏じゃねえ、丁寧な演奏じゃねえ、お前らに刺さるロックやりにきてんだ! できるんだ、できるんだ、できるんだ──」
息を吸う音。腹の中の全部をぶちまけるための、呼吸。
青年は、見上げた。いつの間にか拳を強く、強く握りしめていた。
「──できっこないを やらなくちゃ!」



