距離感ゼロ 〜副社長と私の恋の攻防戦〜

淡々と仕事をこなす日々が続く。
芹奈は、あくまで業務に関することだけを井口と話すよう心掛けていた。

そんなある日。
終業時間を過ぎ、次々とメンバーが退社していく中、芹奈は明日のスケジュールをタブレットで確認していた。
社長から依頼されていた資料を、明日の朝すぐに提出することになっている。

(えっと、四ツ葉建設との直近5年間の提携業務内容をまとめた資料……。うん、大丈夫)

確かめて書類ケースに入れたあと、もう一度タブレットに目をやった。
見慣れない米印がついていて、ん?と首をひねる。

(こんなのつけた覚えないし、今までつけたこともない。どういう意味なんだろう?)

自分ではないとしたら、思い当たるのはただ一人。
芹奈は顔を上げて、斜め向かいの席の井口に声をかけた。

「井口くん、明日社長に提出する資料の名前の横に米印がついてるんだけど。何か知ってる?」

え?と首を傾げたあと、井口は一気に顔色を変えた。

「す、すみません!里見さん、それは……、あの」
「落ち着いて。ゆっくりでいいから説明して」

立ち上がって顔をこわばらせる井口に、芹奈は冷静に口を開く。
だが内心は、大変な事態だろうと身構えていた。

「申し訳ありません。里見さん達が泊まりがけで視察に行かれている間に社長から指示を受けていたんです。頼んだ資料、四ツ葉建設との直近5年間の提携業務内容だけど、山本建設の分も欲しいと言われて。その時は僕、余裕があるから自分でやって里見さんに渡そうと思っていました。だけどそのあと、専務から急ぎの案件を頼まれてそちらに気を取られてしまって……」
「つまり、忘れていたってこと?」
「はい。本当に申し訳ありません」

芹奈はチラリと時計を確認する。
夜の9時を過ぎたところだった。

「井口くん、今からやるわよ。手伝ってくれる?」
「はい。里見さん、本当にすみませんでした」
「謝るよりも手を動かして。分担してやりましょう。私は5年前から2年前の分をやるから、井口くんは2年前から現在までをお願い」
「分かりました」

二人でカタカタとパソコンに向かう。
いつの間にか他のメンバーは誰もいなくなっていた。

(なんとかなるはず。なんとかしないと)

焦りながらも必死で気持ちを落ち着かせる。

「井口くん、既に仕上げてある四ツ葉建設の資料を参考にして作って。フォーマットは同じでいいから」
「はい。山本建設でしか取り扱っていない業務に関してはどうしましょうか?」
「私が先に作るから、他の作業をして待ってて」
「分かりました」

静まり返った夜の秘書室に、キーボードを打つ音がやたら大きく響く。
ようやく1年分を仕上げて時計を見ると、既に終電の時間は過ぎていた。

徹夜は必至。
それよりも、朝までに間に合うかどうかだ。

芹奈は集中して頭をフル回転させる。
途中でふと我に返り、デスクの引き出しを開けてビスケットとゼリー飲料を取り出した。

「井口くん、食べて」
「いえ、そんな」
「いいから食べる!」
「はい!」

強引に食べさせると、芹奈も片手で食べながら作業を進めた。

「こっちは終わった!井口くんは?」
「あと半年分です。ここのフォーマットどうしましょうか?」
「見せて」

芹奈は井口のデスクの隣に移動し、横から手を伸ばしてパソコンを操作する。

「すごっ!里見さん、ものすごく速いですね」
「そう?本気出すとこんなもんよ」
「尊敬します」
「そんな暇があったら、私のパソコンから資料のプリントアウトしておいて」
「かしこまりました!」

頭も身体もフル稼働で夜を明かし、日が昇る頃になんとか仕上がった。

「終わったー!はあ、間に合った」

立ち上がって伸びをすると、井口が改めて頭を下げる。

「里見さん、本当に申し訳ありませんでした」
「ううん。私も確認不足だったし、もういいよ。井口くんも、お疲れ様。さてと!電車も動き出したし、一旦帰ろうかな。井口くんはどうする?」
「僕も帰ります。里見さん、タクシーで送りますね」
「いいよ、そんな」
「いえ、これくらいさせてください」
「じゃあ、別々のタクシーで……」
「いいえ、ご自宅までお送りします」

真剣に押し切られ、芹奈は井口と共にタクシーに乗り込んだ。

「里見さん、今回は本当に自分が情けなくて恥ずかしいです。あんなにえらそうに里見さんに言い寄っておきながら、こんなにもご迷惑をおかけするなんて。あなたのことを好きになる資格なんてないですよね」

うつむいて詫びる井口に、芹奈は考えながら口を開く。

「井口くん。私ね、こうなることが怖くて恋愛する気が起きないの。もし誰かを好きになったら、きっと私も井口くんみたいに、ミスした時に自分を責めると思う。もちろん、恋愛していなくたってミスはする。だけど恋愛中にミスをしたら、浮かれてたからだって落ち込むと思うんだ。それって相手にも失礼だよね。暗に、あなたのせいでもあるって言ってるみたいで。だから私は恋愛には向いてないの」

里見さん……、と井口は言葉に詰まった。

「すみません、僕のせいで。里見さんには幸せになって欲しいです。今回のことがきっかけで里見さんが恋愛を諦めてしまったら、なんてお詫びをすればいいのか……。全て僕の責任です」
「ううん、そんなことない。前からそう思ってたから。私、不器用なんだろうね。恋愛と仕事を切り離して考えられればいいのに。それはそれ、これはこれ、みたいに。そうすれば楽なんだろうな。だけどこれが私なの。やっかいな性格だよね、ふふっ」
「里見さん……」

井口は目を潤ませる。

「今さらこんなこと言う資格、僕にはないですけど。そんな里見さんだから、僕はあなたを好きになりました」
「ありがとう、その気持ちは素直に嬉しいです。だけど、ごめんなさい。私はあなたとつき合うことは出来ません」
「はい、分かっています。これからは気持ちを入れ替えて、もっともっと仕事をがんばります。里見さん、ビシビシご指導お願いします」
「うん!これまで通り、よろしくね、井口くん」
「はい。よろしくお願いします」

ようやく二人は笑顔で頷き合った。