「あれ?私の部屋のカードキーがないです。おかしいな、ここに置いておいたはずなのに」

テーブルの上を探る芹奈に、翔は(もしや……)と思いながらベッドルームを確認する。
案の定、2つあるベッドルームのどちらにも村尾の姿はなく、荷物も見当たらなかった。

「里見さん、どうやら村尾がシングルの部屋に行ったようだよ」
「ええ!?大変!私、今から行って交代してもらいます」
「いや、もう寝てると思うからやめておこう。里見さんがこっちのベッドルームを使ったらいいよ。バスルームのアメニティもね」
「え、でも、副社長は?」
「俺はもう一つのベッドルームを使うよ。こっちにもバスルームがあるし」
「そうなんですね。ではお言葉に甘えて使わせていただきます」
「うん。身体が冷えてると思うから、ゆっくり温まって」
「はい。それでは失礼します」

芹奈は翔に挨拶をしてから、早速猫足のバスタブにお湯を張る。
シャワーブースで身体を洗ってから、ワクワクとバラのバスボムを持ってお湯に浸かった。

「わあ、綺麗!」

シュワシュワと細かい泡のあと、たくさんのピンクと深紅の花びらが、ふわっとお湯に広がる。

「いい香り。バスソルトも使ってみようかな」

少しお湯に溶かしてみると、またしてもバラの香りが立ち上った。

「あ、ひょっとしてこれ、一緒に使うものじゃなかったのかも?」

バスボムだけでも充分良い香りがしたが、バスソルトで更に香りが強くなる。

「もう身体中がバラーって感じ。ふふっ」

お湯を腕にサラサラと掛けながら、しっとりした肌の感触を楽しみ、ご機嫌でバスルームを出た。

バスローブを羽織り、ドライヤーで髪を乾かしながら、明日の朝もう一度入ろうと笑みを浮かべる。

歯磨きも済ませてバスルームを出た途端に、芹奈は、あ!と口元に手をやった。

「大変!荷物を向こうの部屋に置いて来ちゃった。着替えが……」

このまま朝までベッドルームを出るつもりはなかったが、下着と着替えが入った荷物はリビングのクローゼットにある。
だがバスローブ姿でリビングに行き、ばったり翔に会ってしまってはいけない。
芹奈はしばし思案する。

(このまま下着もなしで寝ちゃって、明日の朝早くに取りに行く?でもなあ、副社長4時に目が覚めちゃうって言ってたし)

それなら今取りに行く方がいいかも?
きっと同じようにシャワーを浴びている最中かもしれない。

うん、そうしようと決めると、芹奈はリビングに続くドアをそっと開けてみた。
願った通り、リビングに翔の姿はない。

良かった!と胸をなでおろすと、芹奈はリビングを横切り、入り口近くのウォークインクローゼットに向かった。
音を立てないように静かにクローゼットを開け、中からキャスター付きのキャリーケースを取り出す。
コロコロさせては気づかれてしまうと、芹奈は両手で持ち手を持ち、足音を忍ばせてベッドルームに引き返した。

と、その時、もう一つのベッドルームのドアがガチャリと開いて、バスローブ姿の翔が姿を現す。

「ひえっ!」

驚いた拍子に、芹奈は手にしていたキャリーケースを自分の右足の甲に落としてしまった。

「いたっ……」

思わずしゃがみ込むと、翔がすぐさま駆け寄って来て、芹奈の前にひざまずく。

「見せて」

芹奈の手を握って足から離すと、じっと赤くなった甲を見つめた。

「冷やした方がいい」

そう言って芹奈を一気に抱き上げてソファに運ぶ。
ひー!と芹奈は身を固くした。

(ちょ、ちょっと待って。私、今、下着つけてないんだってば。それに副社長!裸の胸元が見えてるんですけど!)

もはや足の痛みなど感じない。
芹奈は真っ赤になりながらひたすら身を縮こめた。

芹奈をソファにそっと座らせると翔はすぐさま踵を返し、アイスポットの中の氷をタオルにくるんで戻って来た。

「少し冷たいよ」

翔は芹奈の足を下からすくい、ゆっくりとタオルを当てて冷やす。
足は冷たいのに、芹奈の顔は赤くなった。

「あの、副社長。自分でやりますから」
「ん?大丈夫」

いやいやいや!と芹奈は心の中で首を振る。

(全然大丈夫じゃないです。私、下着はいてないんですって。バスローブの丈、膝上じゃないですか?見えたらどうするんですか!それに副社長もバスローブの胸元がはだけて、男らしい胸板が露わになってますよ?)

そう考えたのはどうやら逆効果だったようで、芹奈は更に意識してしまい顔を真っ赤にした。
とにかく胸元を手で押さえ、膝をキュッとくっつけて踏ん張る。

「そんなに痛む?心配だな」

どうやら痛みに耐えて芹奈は身体を固くしていると、翔は勘違いしたようだった。

「キャリーケース、結構重いしキャスターも付いてる。これが足の甲に落ちたんだもんな。骨に異常がないといいんだけど。念の為、病院へ行こう」

ええ!?と芹奈は驚き、急いで否定する。

「まさかそんな!大丈夫ですから」
「何を根拠に大丈夫なんて言ってる?レントゲンで診てみないと分からないよ」
「いえ、私の足ですから分かります。ほら、ちゃんと動きますよ?折れてたら動かないでしょ?」
「こら!動かしたらだめだ。それに折れてなくてもヒビが入っているかもしれない。これから開いてる病院を探して……」
「副社長!本当に大したことないです。だってキャリーケースはそんなに高い所から落とした訳じゃないですよ?それにお風呂上りで外に出たら、風邪引いちゃいそうですし」
「ああ、そうか。でもなあ……」

翔はしばらくじっと考えてから顔を上げた。

「それならひと晩中、俺がそばについてる」
「はっ!?どうしてですか?」
「夜中に痛みが出るかもしれないし、喉が渇いて冷たい飲み物が欲しくなるかもしれない。何より出張中に部下にケガを負わせた責任が俺にはある」
「いえ、そんな。あの、ちょっと!」

答える暇もなく、翔は芹奈を再び抱き上げてベッドルームへと向かう。

「あ、あ、あの、本当に?」
「もちろん。何かあったらいつでも教えて」

翔は芹奈をベッドにそっと寝かせると、もう一度足の具合を確かめる。

「そんなに熱は持っていないから、もう冷やさなくてもいいかな」

そう言って芹奈の身体に布団を掛けて整えた。

「おやすみ。ゆっくり休んで」

ひざまずいてにっこり笑う翔に、芹奈は困り果てる。

「あの、とてもじゃないけどゆっくり休めません」
「どうして?」
「だって、こんなに近くでじっと見られてたら、緊張して……」
「そうか。じゃあ、こうしよう」

何を思ったのか、翔は芹奈の隣に身を滑らせて横になった。

「は、はいー!?あの、副社長」
「君、いい香りがするね。あ、バラのアメニティか。どうだった?」
「あ、はい。とっても良かったです。でもバスボムとバスソルトを両方一度に使ってしまったので、香りがもうバラバラしちゃって」
「あはは!バラバラね、確かに。もうバラの女王みたいだよ。髪も身体も、すごくいい香り」

翔は腕を伸ばして芹奈を抱き寄せると、目を閉じてスーッと息を吸い込む。

「はあ、落ち着く……」

耳元でささやかれ、芹奈は完全に固まった。
胸はドキドキと高鳴り、身体中が火照って熱くなる。

(とにかく離れなければ)

ようやく頭が働き出し、芹奈は顔を上げた。

「あの、副社長。お願いですから離れてください。……副社長?副社長!」

返事の代わりにスーッと気持ち良さそうな寝息が聞こえてきて、芹奈はガックリとうなだれた。