「えーっと、落ち着け。とにかく落ち着いて」

シャワーで髪を洗いながら、芹奈はブツブツと己に呟く。

「ソファで寝ちゃった私を、副社長がベッドに運んでくださったってことよね?うわー、恥ずかしっ!でもそれだけ。ドレスも着たままだし、何もなかったのは確か。でもなあ、このことは誰にも知られちゃいけないよね。私はもちろん言わないし、副社長だってそのつもりのはず」

つまり、何事もなかったかのように普段通りに過ごしていればいいのだ。

「そのうちに、私も副社長も忘れちゃうよね。うん」

己を納得させると、シャワーを終えてバスルームを出た。

「それにしても、あの人いちいち近くない?夕べもいきなり私の肩を抱き寄せてきたよね。まあ、あの時はワインで汚れたドレスを隠してくれたんだろうけど。でもさ、ベッドだってあんなに広いんだし、もっと端っこに寝かせてくれたら良かったのに」

ドライヤーで髪を乾かしながら恨み節を呟く。

「人肌が心地良くてよく眠れたって、私は抱き枕か?確かに私もなんか安心感があったけど……。もしかして、無意識に抱きついてたかも?」

いやいや、忘れろ忘れろ、と唱えながらドライヤーを置くと、スーツに着替えてメイクをする。

肩下まである髪は、束ねてねじりながらアップにし、クリップで留めた。

(昨日と同じスーツだって誰かに気づかれるかな?一応、会社に着いたら着替えよう)

秘書という仕事柄、いつでもどんな場にも出られるよう、芹奈は会社のロッカーにスーツやフォーマルなワンピースなどひと通りの着替えを置いていた。

早めに出社して着替えようと思いながら部屋に戻ると、コーヒーとクロワッサンの良い香りが広がっている。

「わあ、美味しそう!」

テーブルには他にも、スクランブルエッグやベーコン、スープやヨーグルト、サラダやフルーツが並べられていた。

「ちょうど今届いたんだ。どうぞ、召し上がれ」
「えっ、私がいただいてもよろしいのでしょうか?」
「目を輝かせておいて何を言う。ほら、冷めないうちに食べろ」
「はい、いただきます」

朝からなんて優雅なひとときだろうと、芹奈は満面の笑みを浮かべながら美味しい朝食を味わう。

「幸せそうだな。そんなにうまいか?」

怪訝そうに聞いてくる翔に、芹奈は「はい!」と頷いた。

「副社長は毎日のことでしょうけど、私にとっては映画の世界のように贅沢な朝です」
「いや、俺もいつもはコーヒーだけだ」
「そうなんですか?じゃあこれは、私の為に?」

テーブルに所狭しと並べられた豪華な朝食に、芹奈は申し訳なくなる。

「だから、会社の利益の為だってば。それと調査もな」
「じゃあこの朝食は、星みっつー!ですね」
「なんか安っちい星だな」
「失礼な。私の舌は確かですよ」
「はいはい。ミーアキャットはなんでも美味しく食べるんですねー」

そんなことを言い合いながら食べていると、翔に電話がかかってきた。

「村尾か、おはよう。……ああ、ホテルに8時に来てくれると助かる。うん、頼む」

通話を終えると、翔は芹奈に「8時に出るぞ」と当然のように告げる。

「え?いえいえ。私はこのあとすぐに電車で出社します」
「へ?同じ会社に行くんだから、一緒の車に乗っていけばいいだろう?」
「まさかそんな。副社長と秘書が同じ車でホテルから出社するなんて、あり得ません」
「あり得ませんって、あり得るだろ?現にこうやって……」

そこまで言って翔は、ニヤリとする。

「なんだ。気にしてるのか?俺とのひと晩の出来事を」
「な、何をおっしゃいますやら?そんなことある訳ないじゃないですか。別に何もなかったんですから」
「それなら堂々としてればいいじゃないか。村尾にも普通に、おはようって二人で挨拶して」

ブンブンと、芹奈は必死で頭を振る。
想像しただけで、どんな反応をされるかと気が気ではなかった。

「あの、本当に結構です。あ!私、今日は早めに出社してやり残した仕事を片づけなきゃいけないんでした!もう行きますね。それでは、ごちそうさまでした」

立ち上がって頭を下げると、荷物を手にそそくさと部屋を出る。

「あらら、逃げ足の速いミーアキャットだこと」

クスッと笑みをもらしてから、翔は食後のコーヒーをゆったりと味わった。