冬薔薇の戀

「薔子が女中辞めたて……何でどす」

「さあ、俺も詳細はようわからん。せやけどもう今朝、荷物まとめて他の使用人と奥様には挨拶して出て行ったで。お前だけ聞いとらんて噂、ほんまやったんかいな」

 吾涼は唖然として、それからうつむいて逡巡していた。
 中庭でいつものように椿の手入れをしていた吾涼に、眉をしかめて低い声をかけたのは大吉であった。
 薔子が辻本家に暇願《いとまねが》いをして出て行った。
 それは師走《しわす》三十日、晦日《みそか》の前日のことであった。
今は昼の日が昇る、晦日の正午である。

「何でこの時期に出て行くんやろうな。おかしい話や。今までそんな素振り見せとらんかったのに」

 大吉が努めてあかるい調子で話そうとしていても、吾涼は先ほどからずっと暗い顔でうつむいて、何やら思いつめたような悲壮さをまぶたに浮かべている。

「吾涼、どないしたんや」

 吾涼は肩を叩かれたようにはっと顔をあげ、ゆっくりと眸《ひとみ》だけで大吉を見ると、呼応するように顔を向けた。
 その顔は、初めて会ったときの、幼い彼のおもかげを宿していた。
 そのことに大吉は少し驚く。
 あどけなさの中に、ひとしずくの鋭さを混ぜていた幼い吾涼。この世に対する諦念《ていねん》を全体にあらわしながらも、百合子と出会ったことで生まれた変革と希望を、燐光《りんこう》のように淡くまとっていた。
 薄汚れ、また腫れていたがうつくしい少年だと初めに抱いた感情を想起させた。

「……いえ、なんもありませんよ。そうか、薔子が」

 吐息を漏らすようにつぶやく。それは熱をはらんでおり、冬の寒い空気を少し白く染めた。

「なんでや。あいつ……」

 自分だけに言い聞かせるように吾涼はまたぽつりとつぶやいた。
 大吉には、それが死の前の蛍のともしびのように映った。

「そういやあな。毒島《ぶすじま》のやつ、絵ぇ描くん好きやったやろ?」

 大吉は思い出したように言った。

「……絵?」

「お前も覚えてるやろ。屋敷にあいつがやってきて、確か一週間経ったときのことや。百合子さまがこの中庭の椿を、毒島に見せたったら、あいつ、えらい感動しとった。そいで何か欲しいもんはあるかって聞いたったら、紙と絵具と筆さえあれば、何《なん》もいりませんって言うた」

「そやった……。そんなことがありましたね」


 吾涼に湯で洗われ、生まれ直したかのように身綺麗になった薔子は十五の少女とは思えない独特の色香をただよわせており、他の男の使用人が仕事の手を中断して、彼女を惚《ほう》けた表情で見てしまうほどであった。
 しかし屋敷の中でそのような視線を送られるのは、彼女としても年頃の娘らしく、とまどいがあったのだろう。常にびくびくと怯えている姿は、あわれであった。
 そんな薔子を見かねた百合子は、やさしい姉のように、薔子に屋敷の中を案内してやっていた。
 吾涼が中庭でいつもの通りに椿の世話に励んでいた時に、後ろから彼女らが歩いてくる足音が聞こえ、振り返った。
 百合子に肩を抱かれ、不思議そうに辺りを見渡している薔子は、黒髪をお下げに結われ、あいらしくなっていた。百合子の昔の物を貸し与えられていたのだろう。紅色に蒲公英《たんぽぽ》が描かれている着物は、彼女の白い肌と黒髪に、よく似合っていた。
 対して百合子は、青磁色《せいじいろ》の楚々《そそ》とした着物に、あざやかな水色の帯を締めており、彼女の持つきよらかさを強調しているかのようだった。
 蘇芳色《すおういろ》の帯締《おびじ》めと、蓮を象《かたど》った陶器で出来た帯留《おびどめ》が、その着物の印象をきゅっと引き締める。水色の帯と蓮華の帯留で、蓮の咲くみずうみを表《あらわ》していた。白い蓮華の花弁は、中央へ向かうにつれて赤く色を深めてゆく。
薔子を見下ろす優し気なまなざしは、実姉《じっし》のようであった。
 きょろきょろと辺りを見渡す薔子をじっと見ていたら、彼女と目が合い、互いに湯でのことを思い出してしまい、瞠目《どうもく》した。
 共に頬を赤く染め、どちらともなく気まずく目を逸らす。

「どうしたんや。かいらしいなぁ」

 百合子は理由がわからず、ただくすくすと笑いながらふたりを見ていた。
 薔子は恥ずかしそうに目を丸くしてくちびるを噛み、うつむいていたが、地に落ちていた椿の花を見つけ、恐るおそるしゃがんで、それにすっと手を伸ばし、取りあげた。

「薔子?」

 百合子は少し驚いて声をかけた。椿を自分の鼻先にふれるほど近付け、瞳をかがやかせて見つめ続けている薔子の表情には、今まで見たことのないほどの生気を感じた。
 吾涼も驚いて、しゃがんだままの薔子をみつめる。
 数秒後、ふたりにみつめられていることに気付き、あっ、と声をあげて立ちあがった。
 反動で、手にしていた椿を落としてしまった。紅い椿は虚空を描き、何事も無かったかのように、またゆっくりと地に舞い戻った。
 吾涼はその椿の動きを目で追うと、薔子に視線を戻した。
 百合子は笑顔で薔子の落とした椿を拾いあげると「はい」と薔子に手渡した。
 百合子の爪は常に桜貝の色を灯《とも》している。
 淡くきらめく百合子の爪をじっと見つめていた薔子は、百合子が自分に椿を渡そうとしていることに気づき、両手を胸の前で躊躇《ためら》わせると、ゆっくりと百合子から椿を受け取った。
 両手でそっと淡雪《あわゆき》を掬《すく》ったように手を合わせ、そこに乗せられた花にじっと視線を落としたまま動かない。

「そないに気に入ったんやね。椿は初めて見るん?」

 百合子は伺うように微笑みながら、薔子の顔を覗く。ハーフアップにした彼女の栗色の髪が、それに沿ってさらり、と流れる。
 はっと百合子の顔を見上げると、薔子は恥ずかしそうに「間近でこない立派なもんを、ちゃんと見たんは初めてどす」と小声で答えていた。
 吾涼は、頬を染めて瞳をゆらしている薔子の顔を、真顔で見ていた。この娘がこのような表情をしたのは初めてだった。本当に物に感じ入った人間の表情というのは、端から見ても感動する。
 薔子に近寄ると「これもやる」と低音で告げ、「えっ」と彼女がお下げをゆらしてこちらを振り向いた瞬間に、彼女のてのひらの上に白い椿の花を乗せてやった。
 てのひらに乗せられた紅白の椿に、なお一層彼女の感動は深まり、ただふくよかでやわらかく、つやのある椿の花を黙って見つめ続けていた。
 縁側にはいつの間にか大吉が腕を組んで立っており、三人の様子を笑顔を浮かべてやさしく見守っていた。

 何か欲しい物があるかと聞き、ためらいつつも彼女は「ほんなら、我儘《わがまま》ゆうて、ほんま申し訳ないことなんどすけど、絵筆と紙と、絵具さえ頂ければ、他にはなんも入りません」と答えた。
 吾涼は、貯めていた給金の一部で、それらを近所の画材屋で購入してやり、薔子に手渡した。
 吾涼に「薔子」と名前だけ呼ばれて、無造作に画材を渡され、茫然とそれらを見つめると、薔子は顔を真っ赤にしながら、何度もなんども「おおきに、おおきに」と神仏に感謝を捧げるように、深く頭を下げ続けた。
 後日、薔子は宛《あ》てがわれた絵道具を使用し、女中部屋の共同で使用できる机の上で、ひとり空いた時間に絵を描いていた。
 己の自由時間に薔子がいる時間を他の女中に聞き、尋ねに行くと、吾涼がかたわらまで来たことにも気付かず、正座した状態で一心に絵を描き続ける真剣な姿があった。
 髪は絵の邪魔にならないようにか、つむじの上で高くきつく結いあげており、頂点にうすくれないの玉が付いた簪ひとつでまとめられていた。
 何を描いているのかと、手元に視線を移すと、紙いっぱいに広がるような大きな椿の花であった。
 天然の岩石を砕き、ちいさな粒にしたものを、膠《にかわ》で溶いて絵具にしている。
 日本画である。
 その椿は、先日彼女のてのひらに乗せられていた、紅の椿そのものであった。
 隣にはもう一枚絵紙が置かれている。木炭を塗った転写紙を用いて、赤鉛筆で転写した輪郭線に濃い炭で線書きされており、膠で溶いた小千胡粉を、線書きの上から刷毛を使って全面的に塗っている。下地だけ完成されており、この紅の椿の花弁を塗り終わった後、すぐにでも次の白椿に取り掛かれるような、無駄のない画家としての整理がされていた。
 紅の椿は、薔子が筆を動かすたびに色を重ねて深紅になっていった。ひとが何かを描いているのを見たのも初めてだったが、目の前で本物そっくりの、いや、それ以上にうつくしさを感じる椿が、手から生まれてゆく神秘的な現象に、唖然となった。

「薔子、お前、絵ぇ上手かったんやな」

 吾涼の感嘆の声が耳に届いたのか、はっと瞠目すると、顔をあげ、恥じらいからさっとその頬に朱を刷《は》く。
 腕を組み、まじまじと薔子を見ている吾涼と目が合った。

「吾涼さん、見とったんですか」

 吾涼は気まずそうにくちもとを片手で覆った。こめかみに若干汗を浮かべていた。

「すまん。あんまし真剣に描いとったから、声かけられんくてよ」

「い、いやや。こんなもん」

 薔子は羞恥心から椿の絵を隠すように机の下に仕舞った。

「あ、別に俺のことなんか、気にせんで続けとってくれ。悪かったな」

 吾涼は慌てて取りつくろうと、薔子に背を向け、部屋を後にした。「あっ」と声をあげ、その後ろ姿を薔子は瞳をゆらしながら見つめていた。
 いつも、自分が自分の命以上に大切にいつくしんで育てている椿を、あのようにうつくしく丁寧に汲み取って描いてくれた薔子の絵が、吾涼の心をあたたかく濡らし続けた。
 芸術に感動したことなど今まで生きてきて、起きたことがなかった。はじめて知る感情だった。
 廊下で薔子が絵と向き合う真剣な姿、その華奢《きゃしゃ》なからだから生まれる大きな想いに、圧倒されていた。


(思い返せばあいつとの思い出は、日常の中に幾重にもひそんどって、俺の心を満たしていたんやな……。今さら、思い返すなんて)

 吾涼は過去を反芻し、その懐かしくかぐわしい、もう二度と手に入らない思い出への郷愁を感じていた。

 大吉はそんな吾涼のかたわらにおり、その横顔を見つめていた。
 鋭利な筆で書いたような切れ長の瞳。高くとおった鼻すじ。男の物と思えないほど、つややかで夜の雰囲気をはらんだ青い黒髪。陽にさらされる庭仕事をしているというのに、焼けることを知らない白い肌。前の商家で嫉妬されていたのもうなずける、悔しくなるほどの美貌。
 神が絵師として描いた、まさしく役者絵のようなこの男。
 __やはりそういうことやったんやな。
 ふっ、と自嘲気味に笑みを漏らす。
 ふたりの関係の間に変化が生じていたのを、大吉は本能で感じ取っていた。
 業務中に、渡り廊下の角を曲がろうとしていたときのことである。
 大吉の数歩離れた先に吾涼が歩いており、向かいには薔子が歩いていた。
 狭い渡り廊下で、三人通過するのには無理がある。このふたりの往来《おうらい》が済むのを待とうと、角から顔を少しだけ覗かせ、様子を伺っていた。
 薔子は、伏し目がちに廊下の板を見ながらしずしずと歩いていた。
 ふるびた焦げた茶色をした、木製の廊下の板の間は、風雨にさらされ、傷んでいる。
 それをじいっと見ていたが、吾涼の存在に気付いた。その気付き方はまるで、目の前に牡丹の花束を差し出されて、その花の匂いに噎《む》せ返った女のようであった。
 吾涼も表情は見えなかったが、薔子に気付いた様子であった。彼女とすれ違う間際《まぎわ》に、顔を少し横に向けた。後ろから斜めに横顔が見えたが、深い憂《うれ》いを帯びたひとみをしていた。
 顔をあげて、薔子は吾涼と視線を合わせる。
 熱と電流がふたりを繋いでいるかのように糸を引いて、肩先がすれ違った後も、ずっと視線を合わせていたが、ふっとその糸が途切れ、また互いに前を向いた。
 大吉はそれを見て、胸がざわついた。
 まるで別れた恋人が、街中で偶然再会を果たしたが、互いにどう声をかけてよいものかわからず、過ぎ去ってしまった場面を見てしまったかのようであった。見てはいけないものを見てしまったかのような、罪悪感に苛まれた。
いつの間にか、つるりと照った禿《は》げ頭に汗が浮き、こめかみを流れ、顎《あご》をつたっていた。
 大吉の横を薔子が通り過ぎる。見開いたままの横目で、彼女の顔を見た。
 紅を塗っていなくとも赤く熟れているくちびるは濡れ、熱に浮かされたように、頬は薄紅に染まっている。瞳は伏し目でふるふるとゆれており、まなじりからは、流される寸前の如く、透明な涙の膜が覆っていた。長いまつげの影を、頬に落としている。
 すれ違う刹那だけに垣間見えた横顔であった。すっと足を速めると大吉には目もくれずに過ぎ去ってしまった。
 ほのかな薔薇の芳香だけを残して。
 大吉はただ立ち尽くした。身動きが取れず、瞳だけを見開いたままゆらし、片手で口をおさえた。恥ずかしさで自分も顔がさっと赤くなる。さながら深夜に起きてしまい、親のいとなみを見てしまった幼子のように。
 あの顔が、戀《こい》をする女の顔でないというのなら、何が戀をする女の顔であるというのだろう。
 誰か、教えてくれ。
 木枯らしが吹き、いつまで待ってもやってこない大吉を呼ぶ、寅吉の声が聞こえてきても、汗で足が床板に張りついていた。胸があまい羞恥で、焼けつくように熱を帯びていた。

(あの渡り廊下での出来事は、俺の気のせいであらへんかった。やっぱり薔子と吾涼、こいつらの間に男女の関係があったんやな……)

 長年生きてきた男の勘がそう告げる。
 ふっと息を漏らし、口の端で皮肉に笑う。

(まったく若いもんはこれやから)

 自分も若い頃は色々な女と戀をし、別れ、そして今はひとりで生きている。
 過ぎ去った時代の経過と、いつの間にか次の世代の戀を見守る立場となってしまった自分の歳月を想い、目を閉じる。

(俺も年取ったわ。何や、うらやましいのう)

 片手でうなじを掻き、おろすと、懐《ふところ》から一枚の紙をゆっくりと出す。四つ折りにされている。吾涼にさらに近づくと、その紙をそのまま彼の胸に突き出すように差し出した。


「これ、薔子が忘れたんかわからんけど、唯一残してったもんや。お前に渡したほうが、ええと思てな」

「紙……?」

 大吉の手から紙を受け取る。
 眉を寄せ、訝し気な表情で折られた紙を開くと、はっと瞳をゆらして瞠目した。

「薔子が、お前に残したもんやと思うで」

 紙に描かれていたのは、椿の絵であった。
 斑入《ふい》り、白、紅、薄紅色、中庭に植え育てられている椿たち。全て丁寧な筆致で淡さを纏《まと》いながら、一輪一輪描かれている。
 少年の頃、少女の薔子が描いていたあの日の椿から、あきらかに上達しているが、おもかげを残している。

「これは薔子の描いた椿……」

「上手いもんやな。昔よりずっと上手なってる。あいつ、お前に絵道具もろてから、来る日もくる日も、毎日まいにち、忙しい女中仕事の合間縫って、絵ぇ描いとったんや。絵描くの好きやったのもあるけど、自分に絵道具くれたお前に報いたいゆう想いも、あったと思うで」

「俺の為に……」

 絵紙を持つ手が、かすかに震えだす。

「あいつはいつも、お前が手入れしとるこの庭の椿がすきやったんや。すきやったから絵ぇに描いた。画家は、すきなもんやないと絵に描かへん。こない長年ひとつの花をな。……お前と薔子の間に何があったんかは知らんし聞かへんけど、その椿はお前や。お前をずっと描いとったんやあの娘《こ》ぉは」

 吾涼は顔をあげて大吉を見た後、静かな表情になり、伏し目がちに絵紙を見下ろした。じっと見つめていると、この椿の絵を描いていた作者、薔子の筆を持ったしなやかな白い指が、浮かびあがってくる。
 まばたきし、絵を元通りに折り畳む。懐に仕舞うと、軍手を外し、鋏《はさみ》と共に腰に仕舞った。
 意を決した表情で地から顔をあげると、大吉の横を通り過ぎて颯爽と歩きだした。

「吾涼、どこ行くんや」

 大吉は視線を動かさず、背を見せたまま吾涼に話しかける。

「今朝出て行ったんなら、まだ京都駅前にいてるかもしれません。俺、ちょっと行ってきます。今あいつに会って話しとかんと、一生後悔するような気がするんどす」

 吾涼も視線を動かさず、背を向けたまま大吉に返した。

「……おはようおかえり」

 大吉はふっと息を漏らすと、微笑むようなやわらかい声を吾涼の耳に届かせた。
京ことばで、『いってらっしゃい』という意味である。
 吾涼はそれを聞き届けると、感謝の意を込めて言葉を返した。

「いってまいります」


 吾涼が草鞋を脱ぎ、石段を登り、渡り廊下を歩いてゆく足音が遠くなってやがて消えて行っても、大吉は後ろを振り返らなかった。
 地に落ちていた深紅の椿に目を止め、しゃがんで拾いあげると、鼻先に近づけて、そのかおりを嗅いだ。椿の香りは、ほとんど鼻先に近づけないと、わからないような、かすかなものであった。