冬薔薇の戀

 透明な空気が、彼女の部屋に満ちている。本当はほこりなど浮いて、それが橙に染まっているはずなのだが、それすらも透けて見えるほど。そのときの空気は、普段その部屋に流れるものよりも、遥かに澄んでいた。
 そこにいるふたりの影すらも、薄灰色に溶けていた。
 正座していた百合子が、かすかに腰を浮かすと、背中で結った、立て矢の帯が、ゆらりと陽炎をまとうように揺れた。そこにかかった髪も、枝垂《しだ》れ桜のように艶をおびてゆらめく。終わってゆく時を、惜しむかのような幻想的なゆらめきであった。
 
 「吾涼、これ見てぇよ」

 振り返って浮かんだのは、満面の笑顔だった。

 「……お嬢様。嫁入り前に嫁入り道具で遊ぶおひとがどこにおりますか」

「ふふっ。お嫁に行ったら、もうこないに遊べへんもの。今だけの、最後の娘期間を許したってよ」

 「……ははっ」

 表情を固めたかわいた笑いが、目の前で腕を組んで立っている吾涼からこぼれる。
 百合子は気にせず自室で花嫁道具をいじっていた。
 百合の花束をかたどった金の髪飾り。女中たちから贈られた薔薇色の口紅。亀甲模様の螺鈿をほどこされた手鏡。
 彼女が、それらを持ちあげたゆびさきを動かすたび、舐める橙が鈍くひかる。
 吾涼は刹那、まぶしそうに目をすがめた。
 百合子には、彼のその顔がせつなげにも見えたが、それを口に出すことはなかった。
 
「ほら、これはどう? これは? これは似合うと思う」

「はいはい。全部、ぜんぶ似合いますよ」

 自分の頭や頬につけてくるくると動き、朗《ほが》らかな笑顔を向ける百合子に対し、吾涼は感情のない声で、ぱちぱちと手を叩いていた。
 部屋の中の橙が溶けて、うすい金色が流れ、ゆらゆらと彼らの日常を撫でている。この色がいつまでも続くようだった。
 けれど、そこにしずかに交わろうとする夜の紺色が、彼らの日常が終わろうとしていることを示していた。
 ときおり訪れる言葉の無い時間。静かになってしまうと生まれてしまう、彼らの間にだけ感じ取れる切なさや、悲壮を打ち消そうとするかのように、百合子はすっと立ちあがり、吾涼の元へと足を運んだ。

「吾涼、今までおおきにね。ほんまに、おおきに」

 目の前に、水を落としたように透明でましろい互いの顔がある。
 もうすぐ自分から遠ざかってしまう。ふたたび会うことは、もう叶わないかもしれない。
 百合子は瞳をゆらした。夕陽に染まった湖のおもてが、そよかぜに吹かれたような微々たるゆらぎがそこにあった。

「吾涼と話しとると、冬の日に暖炉の前に座っとるみたいに、気持ちが安らぐんよ。それがのうなるのはなんや、さびしいのう」

「ははっ、ほんまにさびしいと思ってくれとるんですか」

「寂しいさびしい。さびしくて泣いてしまいそうやわぁ」

「あほらし」

 軽く談笑する。
 それもふたりの距離が離れればもう終わり。
 そのことを意識しないように、百合子の口から他愛無い言葉は止まらない。
 友人でも主従でも弟でもある、彼は彼女にとってそんな存在だった。
 やがて彼らの履く白い足袋の上にも、夕方と夜の途中の色は、ひらひらと舞い落ちて、溶けて消えてゆく。
 
 百合子が辻本家から旅立つ日のこと。
 彼女のかすかに茶色い髪は、夕暮れと同じ色をまといながら、純白の白無垢の上でゆるやかに結われて七月の透明な昼の中に、確かに存在していた。
 百合子はもうすぐ別れる生き慣れた自分の家を、玄関に来るまで、歩きながら、すみずみまで見つめた。
 座り慣れた縁側。
 そこで頬に手を当てながら、吾涼が椿を手入れするのを見ると心落ち着いた。
台所の香ばしい匂い。
 光の紗が、ほこりをまとってひらりと舞う百合子の部屋。
 彼女はいくつか着物をそのままにしていた。辻本家に自分の分身として、残しておくために。
 最後に玄関に戻ったとき、白い夏の陽光を背負って、ひとりの黒い影が立っていた。

「吾涼」

 名を呼ばれ、振り返った男の顔は、わずかにまつげを伏せて、どこか病んでいるようだった。生命を溶かすほどにまぶしい陽光が後ろからさしているというのに、吾涼の着ている黒い服と黒い影は、どっしりとした濃い存在感を置いていた。これから本格的な暑さをはらむ空気を、拒もうとするような色だった。
 夫の車が迎えに来るまで、未《ま》だ少し時間がある。
 百合子の両親は先に夫の家に向かっていた。使用人も辻本家にいるものはわずか。
 百合子は軽く口を開けて吾涼を見つめていた。
 吾涼が伏せていたまつげを、そっとあげる。
 ふたりの間に、七月の透明な空気の匂いがただよった。
 いつの間にか、百合子は目に涙をあふれさせ、吾涼に抱きついていた。白い兎が跳ねるような飛び方だった。
 吾涼は表情を変えず、ましろい百合子を抱き止める。
 百合子は吾涼の背に回した腕に力を込めた。
 彼の着ていた黒い着物に皺ができ、そこに紫の線が走る。

「吾涼、おおきに……。今までほんま、おおきにね」
 
 なめらかな頬を流れる大粒のなみだに、熱すぎて温度を感じさせなくなった白が、混ざって共に落ちてゆく。
 吾涼は黙ったまま、白無垢の百合子を抱きしめ続けていた。

 かすかに上向いた彼が何を思っていたのか、知っているのは、玄関にそっと咲いていた、夏の熱に朽ちてゆこうとする、橙の百合の花だけだった。 

 百合子が被っていた綿帽子が、陽光とひとしく透明になり、吾涼の落としていた濃い黒を焦がしていった。

 吾涼の夢に現れた百合子は、命あった頃に過ぎ去っていった懐かしい記憶たちを思い返していた。
 彼女の目にしているものは、数秒ごとに輪郭が溶け出し、ただ手のひらで転がした、幼い頃の色とりどりのビー玉のように、きらきらとした色だけになってゆく。
 吾涼との別れを告げた百合子の魂も、ひとしく輪郭が溶けだし、そこからまばゆい白蝶《しろちょう》のひかりとなって、薄青い朝をただよっていた。
 彼女の背後に透明な階段があらわれている。百合子はゆったりと振り返ると、空と同じ色のからだになって、それを登っていった。一度も振り返らずに。

 そうして消えたそこには、ただあまい水のような、つめたい空気だけがそよそよと流れている。