吾涼はその晩、夢を見た。
それは、彼が成人してからはじめて見る夢だった。
重いまぶたをはっと開くと、青褪《あおざ》めた空が天を覆い、地には一面、白い花が絨毯のように広がっていた。
恐るおそる足を進め、ゆるく腰を屈めてその白い花々に近寄ると、それは百合の花であった。
かすかなそよ風にゆれて、ひらひらと大きくラッパ状に開いた花弁をふるわせる白百合は、朝露に濡れてきらめいている。
吾涼はそれを、目を細めて見つめていた。
すると、彼の頭の芯のほうから、「吾涼」と自分を呼ぶ声がする。透きとおった、まろやかで、優しい声だった。
瞠目して顔をあげると、百合の花畑の中に、ひとりの女性が凛とした姿勢で立っていた。
長くつややかな髪は、ハーフアップに結われており、つむじより少し下の辺りが、青い陶器に金の縁取りがされたバレッタで、ゆったりと留められている。その下に流れる髪は、さらさらと風に流れ、透きとおった紅茶色をしている。青褪めた空が、その髪の間から、糸がほどけるように、はらりと覗く。
吾涼はくちびるをうすく開け、眉を寄せて、そこに立つ女が誰なのか見極めようとしていた。
そして、彼女が誰なのか気づき、ゆっくりと瞳を見開いてゆく。
「百合子様……」
やわらかい笑みをそのくちもとに宿して、百合子は立っていた。
はたから見たら、やさしげな彼女の表情は、よろこびとしあわせに満ちているようにみえただろう。
だが、吾涼にだけは、彼女の笑顔の奥に隠されている悲しみやさびしさが、そっと受け取れた。
百合子は、生前見たどんな姿よりも神々しくうつくしい姿をしていた。
白百合に囲まれ、白い着物を着た彼女の姿は、日暈《ひがさ》のように燐光《りんこう》を重ねている。
そのひかりは、まぶしいというよりも、あわく優しかった。
吾涼はからだを震わせ、何か彼女に話しかけようとくちびるを動かした。だが代わりに動いたものは、彼のまぶたであった。形のよい眉がゆがみ、瞳はふるえて、まるい涙が次からつぎへとあふれてくる。
なみだは青褪《あおざ》めた空と同じ色をしていた。
吾涼は自分でもなぜこんなに涙があふれるのかわからなかった。ただ胸の奥深くから、なつかしさと、さびしさと、いとおしさが、際限なく込みあげてくる。
吾涼は両手を膝について、上半身を倒した。
涙を抑えるためであったが、百合子に頭《こうべ》を垂れているようであった。
暑いしずくが彼の膝を濡らす。
すると、前方から百合の花を掻き分ける、さらさらとした音が聞こえた。
そして、彼の頭をふわりとやわらかく、誰かが包み込む。
百合子であった。
「ええの。もう自分のために、生きてええの」
彼女のまろやかな声は、彼を包み、癒してゆく。吾涼はさらに嗚咽を漏らし、しばらく彼女に強い力で抱きついて、なみだを流し続けた。
百合子に何か言いたかった。だが、言葉は声にならず、かすれて消えていってしまう。
百合子のしなやかな手で、短い髪をゆったりと撫でられるたびに、心の中にずっと沈んでいた泥が浮きあがり、鈍いひかりをまとった泡の粒となって消えてゆくような気がした。
「吾涼」
百合子がやさしく、彼の名前を呼ぶ。
涙に濡れた顔をあげると、青い太陽のひかりで逆光となった彼女の顔を確認できないまま、吾涼の意識は闇へ沈んでいった。
それは、彼が成人してからはじめて見る夢だった。
重いまぶたをはっと開くと、青褪《あおざ》めた空が天を覆い、地には一面、白い花が絨毯のように広がっていた。
恐るおそる足を進め、ゆるく腰を屈めてその白い花々に近寄ると、それは百合の花であった。
かすかなそよ風にゆれて、ひらひらと大きくラッパ状に開いた花弁をふるわせる白百合は、朝露に濡れてきらめいている。
吾涼はそれを、目を細めて見つめていた。
すると、彼の頭の芯のほうから、「吾涼」と自分を呼ぶ声がする。透きとおった、まろやかで、優しい声だった。
瞠目して顔をあげると、百合の花畑の中に、ひとりの女性が凛とした姿勢で立っていた。
長くつややかな髪は、ハーフアップに結われており、つむじより少し下の辺りが、青い陶器に金の縁取りがされたバレッタで、ゆったりと留められている。その下に流れる髪は、さらさらと風に流れ、透きとおった紅茶色をしている。青褪めた空が、その髪の間から、糸がほどけるように、はらりと覗く。
吾涼はくちびるをうすく開け、眉を寄せて、そこに立つ女が誰なのか見極めようとしていた。
そして、彼女が誰なのか気づき、ゆっくりと瞳を見開いてゆく。
「百合子様……」
やわらかい笑みをそのくちもとに宿して、百合子は立っていた。
はたから見たら、やさしげな彼女の表情は、よろこびとしあわせに満ちているようにみえただろう。
だが、吾涼にだけは、彼女の笑顔の奥に隠されている悲しみやさびしさが、そっと受け取れた。
百合子は、生前見たどんな姿よりも神々しくうつくしい姿をしていた。
白百合に囲まれ、白い着物を着た彼女の姿は、日暈《ひがさ》のように燐光《りんこう》を重ねている。
そのひかりは、まぶしいというよりも、あわく優しかった。
吾涼はからだを震わせ、何か彼女に話しかけようとくちびるを動かした。だが代わりに動いたものは、彼のまぶたであった。形のよい眉がゆがみ、瞳はふるえて、まるい涙が次からつぎへとあふれてくる。
なみだは青褪《あおざ》めた空と同じ色をしていた。
吾涼は自分でもなぜこんなに涙があふれるのかわからなかった。ただ胸の奥深くから、なつかしさと、さびしさと、いとおしさが、際限なく込みあげてくる。
吾涼は両手を膝について、上半身を倒した。
涙を抑えるためであったが、百合子に頭《こうべ》を垂れているようであった。
暑いしずくが彼の膝を濡らす。
すると、前方から百合の花を掻き分ける、さらさらとした音が聞こえた。
そして、彼の頭をふわりとやわらかく、誰かが包み込む。
百合子であった。
「ええの。もう自分のために、生きてええの」
彼女のまろやかな声は、彼を包み、癒してゆく。吾涼はさらに嗚咽を漏らし、しばらく彼女に強い力で抱きついて、なみだを流し続けた。
百合子に何か言いたかった。だが、言葉は声にならず、かすれて消えていってしまう。
百合子のしなやかな手で、短い髪をゆったりと撫でられるたびに、心の中にずっと沈んでいた泥が浮きあがり、鈍いひかりをまとった泡の粒となって消えてゆくような気がした。
「吾涼」
百合子がやさしく、彼の名前を呼ぶ。
涙に濡れた顔をあげると、青い太陽のひかりで逆光となった彼女の顔を確認できないまま、吾涼の意識は闇へ沈んでいった。
